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HIDE’S ESSAY ( Hideyuki Ishii )

もしよかったら、ぜひ僕のESSAYも読んでみてください。
オーディオ・ブックス・リリースのお知らせです。

オーディオ・ブックスのリリースのお知らせです。

 

最近、次のように思うんですよ。

ハンナは、ハナであり、ハナは、花でもあるなぁ、、、、と。言葉遊びのようではありますが、、、(笑

 

よかったら、ぜひ聴いてみてください。シンプルなポエトリー・リーディングとなっています。

 

' Hanna '  (Hideyuki Ishii)(音楽、ポエトリー、ナレーション、アルバム・カバー・アート by Hideyuki Ishii)

 

Amazon Music , itunes , CDbaby などで試聴、購入可能です。

 

Amazon でのご試聴、ご購入は、こちらから可能です。↓

 

 

 

 

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「侏儒の言葉」芥川龍之介著

 

 だれかになにかをおくる、差し上げる、プレゼントするときに、次のようにいうことがあるかもしれない。 

 

「つまらないものですが、、、」とか

「大したものではないんですが、、」などがある。

 

 ここには、やはり贈答文化における文化的伝統が感じられる。海外の文化にはないところのものだ。(異文化におけるコミュニケーションにおいては、何よりもシンプルさが最優先されると個人的には思っているが、、、それはさておき、、、)

 

「つまらないものですが、、、」とか

「大したものではないんですが、、」といったからといって、本当に「つまらないもの」とか「大したものではないもの」をおくる、プレゼントするわけではないのだ。。

 

 さて、この文脈で、芥川龍之介の作品に触れたい。

 

「侏儒」とは、「小人」とか「一寸法師」とか「見識のない人」のことのようだ。では、「侏儒の言葉」を例えば、「一寸法師の言葉」あるいは、「見識のない人の言葉」とシンプルに置き換えることが可能なのだろうか。ここらあたりは、十分注意する必要があるのだ。

 

 レオ・トルストイの「イワンのばか」は、本当にというか、、ある視点からみて本当に「ばか」だったのだろうか。言葉に、何層もの 複数のレイヤーが背後に隠されているのだ。

 

 ところで、この作品は、格言、戒め、短い文章、つまり、アフォリズムで構成されている。(ああ、フリードリッヒ・ニーチェのツアラトゥストラが想起されるなぁ〜、、あれは、読むのにしんどかった、しんどかった、二回ゆうた。いや本当に、、それはさておき、、笑)格言、短い文章には、もちろん一長一短ある。簡潔に、真理に切り込むことができる一方で、短い文章であるがゆえに説明不足が生じ、誤解を生む恐れがある。

 

 この作品のすべてを取り上げたいところだが、この作品が示しているようにコンパクトなエッセイにしよう。(笑)

 

 例えば、「二宮尊徳」をどのように考えるのかという視点 パースペクティブは、興味深かった。こちらがわのみずからの中に複数の視点、考え方を常に持つことの重要性が示されているように思える。かりに、みずからの視点に限界を感じるならば、ほかの人の考え方に、こころ マインドをオープンにする必要があるのではないだろうか。

 

 それから、「瑣事」においては、芥川龍之介の「幸福論」の一端が垣間見えるのではないだろうか。

 

 最後に、「人生」において、否が応でも、どのように進んでも、突き当たる「矛盾」、「不条理」にどのように対処していくのかということは、永遠のフィロソフィカル・クエスチョンだ。この作品は、それらの問題に対してヒントを与えているように思えてならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「ザ・ストレンジャー」ノーマン・ウィトニー著

 

 ぼくは、いつもながら思っていることがある。

 

 それは、「正しさ コレクトネス」とは何か、ということだ。とても、とても難しいのだ。これが、いや本当に。(笑 そのことはさておき、、、(笑

 

さて、ノーマン・ウィトニーの作品だ。「The Stranger by Norman Whitney」シンプルな英文、英会話で構成されている。とてもとても分かりやすい。(笑

 

 このストレンジャーであるデイブ・スレイトンが、これがね、、、ビッレッジでコーナー・ショップでね、なんかしよるわけだけど、、(なんかしよるって、、、笑)、、いわゆるカッコつきの ” ひとの手助け ヘルプ ” をするわけなんだけど、、、

 

 最後に、この作品は、「正しさ コレクトネス」というものは、考えている以上に、「誘惑 テンプテーション」の前では、繊細で壊れやすいものであることを示しているのではないかと思うのだ。いつの世にも、どういうわけか生じる実に厄介な問題だ。この文脈で、「正しさ コレクトネス」の脆弱性 バーナビリティーの存在を、いつも、頭の片隅でしっかり認識しておく必要があるのではないだろうか。

 

 アナは、「正しさ コレクトネス」を全うしたといえるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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「恩讐の彼方に」菊池寛著

 「雨垂れ石を穿つ」ということわざがある。雨があの固い石に穴をあけるのだからものすごいことだ。

 では、だれかが、ひとりで洞窟を掘り進めていたとしたら、、、なんのために、、。

 

さて、菊池寛の作品だ。冒頭から、激しい痛みの伴うシーンが印象的だ。このイントロダクションが実に鮮やかすぎるほどにキレているのだ。本当にキレているのか、いや、キレているのだ。(笑

 

どういうわけか、パブロ・ピカソの「闘牛と闘牛士」の絵が浮かんできた。それはさておき、、。

 

 市九郎のなした行為 アクションとその心 マインドの動き。ここらあたりは、偶然と必然、善と悪など、対立すると思われるものが一瞬の何かのきっかけにより、あっという間に反転することが描かれていて引き込まれるところだ。まさに、表裏一体、コインの裏表であることが示されている。

 

 市九郎と実之助。

 

 ぼくが、市九郎の立場だったらどのように行動しただろう。ぼくが、実之助だったら、どのように考えただろうか。これだけでも様々に考える余地があるというのに、ここで石工たちが登場する。このことは、かかる事態を、より複雑で高度な問題へと一段上に押し上げるのだ。より解決 ソリューションが困難になる。

 

 後半部に出てくる「岩壁に向って鉄槌を下す音」と「経文を誦する声」に実之助が反応するところが、興味深かった。

 

 最後に、市九郎と実之助、双方のとった行為 アクションは、「恩情」と「うらみ」、つまり、ラブ・アンド・ヘイトを超えたレイヤー、プラットフォームに到達していたと思える。ただ一方で、このような考え方は、西洋の近代合理主義とは、あきらかに衝突するのではないだろうか。ここらあたりは、森鴎外の「高瀬舟」にも通ずる。

 

 つまり、ぎりぎりのところを、もっというと、永遠のフィロソフィカル・クエスチョンを菊池寛は、この作品を通して示しているに違いないのだ。

 

 

 

 

 

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「若き詩人への手紙」ライナー・マリア・リルケ著

 ライナー・マリア・リルケが若き詩人 ヤング・ポエットに助言をおくっているのだ。

 

「若さ」は、ときに強くもあり、ときに弱くもあるのではないだろうか。もちろん、このことは、同様に「若くないこと」にもいえることだ。(当たり前やないか〜い!!とかるく右手の裏拳で突っ込みを入れるのだが、、そんなことはどうでもいいことだが、、、笑)

 

 「若さ」とはなんだろうか。え、え、〜っと、、若さ、、若さ、、柔軟であること、、固まっていないこと、、これからであること、、色でいうと青いこと、、音でいうととがっていること、、ティーンエイジャー、、、年老いていないこと、、熟していないこと、、経験が不足していること、、などなど、、、様々な文脈で「若さ」を考えることができ、ある一面を切り出すことができるだろう。

 

  ああ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの「若きウェルテルの悩み」が想起されるなぁ。音楽でいうと、「The Ballad of The Sad Young Men」のメロディーがとてもとてもゆっくりながれるなぁ、、そのことはさておき、、、。

 

 年齢を重ねてふりかえると、なんということもない、とるにたらないことだったなぁと思えることも、その当時の若い自分自身にはわからないのだ。ここらあたりは、なんともどうもこうもしようもない人生の仕組みというか、アーキテクチャというかなんというかそういう作り、立て付けになっているのだ。この文脈で、フランツ・カフカも「性急さ」の危うさを示しているのではないだろうか。大海原を高速で進むボートは、ゆっくり進むボートに比べてまわりを見渡す余裕がないためになにかしらの問題に直面しやすくなるのではないだろうか。

 

 さて、ライナー・マリア・リルケの作品だ。どのように若き詩人 ヤング・ポエットに助言をおくったのかが書かれていてとても興味深かった。もちろん、考え方がよく理解できた。

 

 「根拠」、「こころの最も深いところ」、「告白」、「死」などが、とても印象的なことば ワードだった。

 

 ああ、それから、なにかしらの助言、アドバイスをもらえるということ、もらえることができる環境にあるということは、実にありがたいことではないだろうか。もちろん、助言、アドバイスをもらう側、こちら側のこころ マインドしだいだが、、、、。

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「植物人間」蘭郁二郎著

 

例えば、旅先でいきなり、行き交う人のひとりから次のようなことをきかれたら、どのようにこたえるだろうか?(もちろん、ありえないはなしであり、設定に無理があり、ひどく恐縮するところであるが、、、笑、。)

 

 「あ、あの〜、、不躾で恐縮しますが、、あ、あの〜、、あなたは、、何人間ですか?」と。

 

さて、ここでは、こたえるというより、まず、逆になんでそのようなことを聞くのかと思うのではないだろうか。もちろん、聞き手 インタビュアーがどういう人物であり、どのような文脈 コンテクストできいているのかが重要になってくることは間違いないだろう。

 

さて、蘭郁二郎の作品だ。

 

ひとという存在者は、動物 エニモゥの仲間なのだろうか、それとも 植物 プラントの仲間なのだろうか。そして、動物 エニモゥと植物 プラントの違いはなんなのだろう。さまざまな切り口があるだろう。例えば、運動する、活動する、アクティブかどうかという視点から違いを判断するやり方もあるのかもしれない。

 

最後に、蘭郁二郎の示した発想 アイディア、視点 パースペクティブは、実に興味深かった。

 

  ひとという存在者は、生きとし生けるものの大きな輪 サークル、関係性 レラティビティの中でしか生きられないというメッセージでもあると受けとめられるし、植物を見る視点 パースペクティブ プラットフォーム レイヤーをより豊かにしたに違いないのだ。

 

 

 

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「自伝と書簡」デューラー著

 

ふと思うのだ。「手紙 レターと日記 ダイアリーとどのように違うのだろうか。手紙は、時に日記になったり、またその逆になったりすることもあるのではないか」と。いつもながらのいきなりの問いで恐縮するところであるが、気を取り直していこう。笑

 

まずは、「違うこと」よりも「同じこと」、もしくは似ているものを探したい。(ひとがひとを理解する手順 プロトコールも、まず、違いより、同じものを最優先で探したいものだが、場合によっては、なかなかうまくいかない現実もあるのかもしれない。それはさておき、、笑)

 

 手紙も日記も「書く 記す」という書き手によるアクション、プラットフォームを共有 シェアしている。その他にもいろいろと考えられるのだろう。

 

では、手紙と日記の違うところを考えたい。大きく二つあるのではないだろうか。その一つ目は、書き手がどのような意思、どのような理由をもって「書く 記す」のかということ。二つ目は、その「書く 記す」というアクションをとった後の書き手のとるアクションではないだろうか。

 

 手紙にしろ日記にしろ、ひととなりがわかり貴重であることに間違いないのだ。ときに歴史的事実がひっくり返ることさえあるのだから。

 

さて、アルフレッド・デューラーの書簡だ。この作品は、文字だけではなく絵画も添えられている。ものすごい絵画だ。アルフレッド・デューラーは、この時代になにを考え、どのように生き、誰にたよりながら生計を立てていたのだろうか。書簡 手紙のやりとりから、その一端が垣間見れる。

 

まずは、1498年の自画像に圧倒される。今から、約500年前だ。 ロングヘアーのアルフレッド・デューラー。この当時、このデザイン モード 衣服にはどのような意味があったのだろうか。それから、アルフレッド・デューラーの家族の肖像画も印象的だ。

 

この書簡の中で、ニュルンベルクのヴィリバルト・ピルクハイマーとのやりとりの中で印象的だったのは、アルフレッド・デューラーがアートの事ばかりを考えて生きることができなかった、許されなかったということだ。書簡の中で宝石商、金細工師が出てきたり、作品である絵と宝石のついた指輪交換を考えたりと、とにかく作品のみならず、ビジネスのマネジメントにエネルギーを注がざるを得なかったという境遇が記されている。それでも、しっかりした作品を残しているところは、たくましささえ感じるのだ。とても、あのアルフレッド・デューラーの自画像のあの感じからは想像できないが、、いや本当に。(笑、。

 

 最後に、アルフレッド・デューラーの絵画作品を先に知り、この書簡を後から知ったわけだが、あらためて、アルフレッド・デューラーの絵画作品を鑑賞する際に、より立体的に鑑賞できるようになったのではないかと思えるのだ。この文脈で、この書簡はとても貴重だといえる。

 

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「こころと人生」河合隼雄著

 ふと次のように思うのだ。「ひとりは、ふたりであり、さんにんなのだろうか。」と。ソロ、デュオ、トリオ、、、、。

 今回も、いつもながら、いきなりのなんのこっちゃで恐縮するところだが、気を取り直していこう。(笑

 

 さて、河合隼雄の作品だ。

 

 タイトルが、「こころ」、そして、「人生」ときている。このどちらとも、とても、とても、(とてもを2回ゆうて強調した、、そんなことはどうでもいいのだが、、笑、、気を取り直していこう、、。)取り扱いに注意を要するもの フラジャイルであり、とてつもない大きなものだ、断言できる。この二つのとてつもない大きなものを取り扱う ハンドリングできる、言葉で表現できるということ自体、ものすごいことだと思うのだ。ぼくには、もちろん、もちろん、できない。不可能 インパッシボゥ〜だ。いや本当に。

 

 この作品には、ヒント、ティップスがいっぱい詰まっている。とにかく考えさせられる。

 

たとえば、

 

カール・グスタフ・ユングの個人的経験と気づき。

 

あちらの世界とこちらの世界のどこに身を置き、バランスさせるか。

 

成熟 マチュアリティーについて。

 

自分というまわりに支えられる存在者。

 

不可避な臨終をどのように考えるか。

 

さて、、、、。

 

 

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「お貞の話」小泉八雲著

 

 ぼくは、最近、時計回り クロックワイズは、なぜ左回りではなく、右回りなのだろうかと思うことがあるのだ。いつもながらのなんのこっちゃで恐縮するところだ。気を取り直していこう。笑 

 

 あ、そういえば、禅の円相も時計回りの一筆書きだ。そして、「輪廻転生」という漢字のなかに「回」が入っている。この「回」がかかわるところのものは、実は、なにげなく大きな問題だと思うのだ。

 

 さて、小泉八雲の作品だ。

 

 まず、この作品に癒された。なぜ、そのように癒されるかというと、「何とも言えない不思議さ」に包まれているからだ。そして、いつのまにか、この「何とも言えない不思議さ」は、「ああ、あれは、いつだったっけ、、自分にもそういえば、、これに似た経験があって、、うん、思い当たる節がある。。」と自らの経験を思い出したりした。(この時点で、もうぼくのこころは、もっていかれとった、、いや本当に。笑)

 

  最後に、「こころ 魂 マインド ソウル と からだ バディー」をどのように考えるかは、それこそ、ひとそれぞれだろう。ただ、人生において、「何とも言えない不思議さ」を経験して、深く印象に残っている人にとっては、少なからずこの作品は響くのではないだろうか。

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あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

平成30年 新春

石井英之

Happy New Year To You !!

Hope you enjoy this year 2018 !!

Thank You!!

Hideyuki Ishii,Tokyo,Japan.

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「言語起源論 〜旋律と音楽的模倣について〜」ジャン・ジャック・ルソー著

 

ぼくは、今の今の今、(今が3回も出てきとるやないか〜い!!とすかさず、ツッコミを入れるのであるが、、それはさておき、、笑)「話すこと」が出来る 、可能であるということが、実は、とてもありがたいことであると改めて認識するようになった。(いきなりのなんのこっちゃで恐縮しきりであるが、、笑、しかしながら、気をとりなおしていこう、、笑。)

 

  仮に、ぼくが、「話すこと」が出来ないとすれば、どのような理由が考えられるだろうか。さまざまな理由が考えられるだろう。うん、いろいろあるだろう。

 

 この世に生を受け、「話すこと」が出来るようになるには、とにかく、第一に、ひとに育てられなければならないのだ。当たり前だが、オオカミでもなく、他の動物でもなく、マシーンでもなく、ひととの関わり、関係性、社会性、文化的バックグラウンドにおいて育つ必要があるのだ。この文脈で、「話すこと」ができる、可能であるということは、ありがたいことであり、深く人間存在に関わっているに違いないのだ。

 

さて、次に、「話すこと」と「うたうこと」はどのように違うのだろうか。違うとすれば、どのくらいの距離感、温度差で違うのだろうか。現代社会のそれら二つの取り扱い方 ハンドリングの仕方は正しいのだろうか?

 

あ〜、、それから、それから、「語るように歌い、歌うように語る。」という表現は、何を示しているのだろうか。

 

  例えば、はじめは、なにかを話すのだが、そのうち、情熱がほとばしり、歌になるというような流れは、(飛行機が滑走路を走り、加速して離陸する テイク・オフするようなイメージであるが、、笑) 現代社会にとってどのような意味をもつのだろうか?

 

いろいろといつもながら、ふつふつと沸いてくるさまざまな問いの前で、立ちすくむわけであるが、、(笑

 

 

  ここで、ジャン・ジャック・ルソーの作品だ。言語 ランゲージの起源 オリジンについてのエッセイだ。メロディーとミュージカル・イミテーションの関係性も考察されている。

 

 

さまざまな視点が示されていて、随所で鋭い洞察が垣間見られ、ぼくはもう、たじたじだった。いや本当に、、笑)    

 

 

  この作品の冒頭が印象的だ。ジャン・ジャック・ルソーは、次のように考えているのだ。ひとをひとたらしめているのは、「ことばを話すこと」によると。つまり、ひとを「ことばを話す」存在者であると考えているのだ。

 

  それから、話しことばが文字という記号によって表記される時、そこには、変換されているわけであるから、当然、そこには、なにかしらの「ロス」が生じているに違いない。話しことばと文字表記の関係性についての視点 パースペクティブも興味深いところだ。

 

 旋律 メロディーについては、そのひとりひとりにとって知られた旋律 メロディーや理解できるフレーズのみが、こころに響く コネクトするというところがとても印象的だった。このことは、その人その人の育ってきた文化的バックグラウンドが関係しているということを示しているようにも思える。

 

最後に、ジャン・ジャック・ルソーは、歌と音声言語は、共通の起源 オリジンを持つと考えたのだが、どのようにして、そのような考え方に至ったのかという論理展開がとても印象的だった。

 

   

 

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「秋」 ライナー・マリア・リルケ著

  ライナー・マリア・リルケ。

 

  ぼくは、ライナー・マリア・リルケの作品に触れるたびにいつも思うのだ。

 

 「ああ、なんて難解なんだろう。」と。

 

  しかしながら、この作品は、比較的入りやすい気がした。

 

   それにしても、プラハのまちは、フランツ・カフカにライナー・マリア・リルケを生んでいるのだ。

  

    まちという場所なのか、時代なのか、それらもろもろの条件があるとき重なり合い、まるでビッグバンのようにスパークした結果なのだろうか。

 

   これは、偶然なのか必然なのか。

 

   プラハにはなにかがあるに違いない。

 

    カレル橋は、なにを見てきたんだろう。

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「落葉降る下にて」高浜虚子著

 この季節、まちは、イエロー・カーペットでおおわれる。決して、レッド・カーペットではない。いやいや、なんのこっちゃ。(笑 

 

 自然界は、時の流れとともに、木の葉を緑色から暖かい色に変え、まちに葉を落とすのだ。フォーリン・リーブスだ。フォーリン・ラブではなく、フォーリン・リーブスだ。(笑

 

 考えてみれば、自然というものは人間界にどんなことがあろうとも容赦なしのように思えるのだ。(笑。   いや、容赦なしと考えるこちら側になんらかの不具合が生じているのかもしれない。そもそも自然界は、人間界のものさしでははかれない大いなる世界なのだ。

 

 さて、高浜虚子の作品だ。最後に出てくる一文が印象的だ。

 

「山川が静かにありのままを其の掌の上に載せていれば時は唯静かに其れ等のものの亡び行く姿を見せるのみである。其処に善も無ければ悪も無い。」

 

 善も悪もない世界、レイヤー、プラットフォーム。つまり、自然に代表される「ありのままであるがままでそのままの アズ・イティイズ、レット・イット・ビー」の世界、レイヤー、プラットフォームは、善悪の価値基準、クライテリアを超越していると考えられるのではないだろうか。

 

 最後に、さまざまなことが起こる人生において、だれでも「永遠の別れ」をいやがおうでも経験する。この「永遠の別れ」は、だれにとっても永遠のフィロソフィカル・クエスチョンだ。この高浜虚子の一文は、東洋の人生観、世界観を静かに力強く示しているとともに、「永遠の別れ」というフィロソフィカル・クエスチョンに「気づき」をあたえているように思えてならないのだ。

 

 

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レラティヴィティの不思議

 「レラティヴ、、レラティヴィティ、、レラティヴ、、レラティヴィティ、、。」

 「親戚、、、、相対性、、、、親戚、、、、相対性、、。」このようにつぶやきながらこう思うのだ。

 

「なんか、、つながっとるやないか〜い」と。 笑

 いつもながらのなんのこっちゃで、恐縮するところであるが、、、笑、、気を取り直していこう。笑 

 

 さて、Albert Einstein アルバート・アインシュタインがメッセンジャーに、ティップ代わりに、二つのメモを渡したという1922年の東京での出来事なのだが、気になるのだ。何が気になるかというと、アルバート・アインシュタインが「何を書いたのか」が気になるのだ。原文は、ドイツ語だ。

 

"Stilles bescheidenes Leben gibt mehr Glück als erfolgreiches Streben, verbunden mit beständiger Unruhe."

 

 “A quiet and modest life brings more joy than a pursuit of success bound with constant unrest ”.

( 静かで控えめな生活は、コンスタントな不安に縛られた成功の追求よりもより多くの喜びをもたらす。)

 

"Wo ein Wille ist, da ist auch ein Weg."

 

“ Where there’s a will, there’s a way ”.

( 意志あるところに道はある。)

 

 僕は、この1922年の東京での出来事を次のように考えることができるのではないかと思うのだ。

 

 アルバート・アインシュタインは、相対性 レラティヴィティだけでなく、しあわせ ハッピネスのセオリーも発見していたのだ。この文脈で、この二つのメモは、 アルバート・アインシュタインの幸福論の一端が垣間見えるものに違いない。

 

 ただ、一方で、この世界は、難しいもので、現実には様々な不確定要素があり、なかなかセオリーどおりに事が運ばないことも多々あるのかもしれないともおもったりもするのだ。。。

 

 アルバート・アインシュタインがメッセンジャーに次のように伝えたというのだ。

“ Maybe if you’re lucky those notes will become much more valuable than just a regular tip ” .

( もしあなたがラッキーなら、これらのメモは普通のティップよりもずっと価値あるものになるでしょう。 )

アルバート・アインシュタインの先見性は、このようなところにも表れているのかと驚くばかりだ。いや、本当に。(笑

 

 ああ、それから、この2017年のオークションでこれらのメモを出品した人物が、当時メモを受け取ったメッセンジャーの親戚 レラティヴ というではないか。

 

 また、つぶやいてみたりするのだ。笑

 

「レラティヴ、、レラティヴィティ、、レラティヴ、、レラティヴィティ、、。」

「親戚、、、、、、相対性、、、、、、、親戚、、、、、、相対性、、。」

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「高瀬舟」森鴎外著

船に乗る。船に乗って川や海を渡る。もちろん、様々な船があるだろう。小さな船から、大きな船に至るまで。それから形もいろいろある。丸太をシンプルにくんだイカダ、丸いたらいのような船。カヌーにカヤックにヨットにボート。もちろん、最新鋭のテクノロジーでつくられたメガ・クルーズ・シップなどもある。僕は、船に乗るのが好きだ。大好きだ。(笑 どんな船でも。いや本当に。

 

船も好きだし、川も海も好きだ。変わりゆく景色も好きだ。ポジティブなイメージしかない。想像しただけで頭の中で、BGMがなる。その曲は、「ラ・メール(ビヨンド・ザ・シー」だ。しかしながら、船酔いは、きついな。きついやないか〜い!!(笑

 

それから、、ただ、、いまだに、個人的には、、、、巨大な船が海に浮かんでいることが不思議でならないのだ。(笑、、いや、もちろん、浮力でちゃんと計算されていて安全性が確保されているのは承知しているのだが、、、、。

 

 

さて、森鴎外の作品だ。非常にシリアスであり、永遠のフィロソフィカル・クエスチョンに覆われている。ぎりぎりの究極の選択に迫られた時にひとはどのように行動するのだろうか。そのようなぎりぎりの状態の中でのディシジョン・メイキングだ。当事者は、困難を極めるにちがいない。考えてみれば、現代社会にも同じような状況が生じることもある。そのとき、ひとはどのように対処していくのだろうか。それぞれの人が、それぞれのやり方で身をもってあたるしかないのだ。

 

最後に、この作品には、日本文化の独自性が深く感じられる。それは、特に、弟が喜助を思う気持ち、そして喜助が弟を思う気持ち、もちろん、庄兵衞が喜助を思う気持ちにおいてだ。この独特な考え方は、「心中」にもつながるものであり、「うち」に属する人々にとっては、理解可能だが、「そと」に属する人々には、文化的背景の深い知見がなければ、理解不能であるにちがいないのだ。おそらく、西洋の近代合理主義の考えとは、明らかに衝突する。どちらがどうという話ではなく、違うのだ。ただ違うだけだ。善し悪しのレイヤー、プラットフォームのそとにあるのではないだろうか。

 

沈默した二人をのせた高瀬舟は、どのようにどこにたどり着いたのだろうか。

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「悟浄出世」中島敦著

 「自分自身を知る。」ということは、一体全体どういうことなのだろうか?いや、もっと具体的に考えたい。ぼくは、ぼく自身を知っているといえるのだろうか。知っているとしたらどの程度、なにを知っているのだろうか?

 

いつもながらのイントロダクションで、いきなりのなんのこっちゃで恐縮するところであるが、、、笑、、歩みを進めていこう。

 

「自分自身」は、「自己」、「我」であるといえるだろう。では、「知る」とはなんだろうか。「わかる」、「理解する」と言い換えることができるだろう。もちろん、様々な考え方があるだろう。この文脈で、「自分自身を知る。」ということは、「自己、我をわかる、理解する。」というように言うことができる。ただここには、じつにやっかいで大きな問題があるのだ。それは、「自分自身」そのものがなにかという問題だ。

 

一口に、「自分自身」といっても、「自分自身」には、様々な側面、レイヤーがあって、それらもろもろの構成要素が集積、融合、インテグレートされているので、「自分自身」がなにかという問題はじつにやっかいで大きな問題なのだ。「自分自身」は、限りなく球体に近い多面体のようであり、どの面も「自分自身」の断片 フラグメントと考えられるのかもしれない。

 

 では、「自分自身」をどこからどのように考えていけばいいだろうか、様々な切り口があるのかもしれない。ひとつの大まかな考え方としてあるのが、「自分自身」がこころとからだという二大要素によって成り立っているとする見方だ。この文脈で、「自分自身」がなにかをしるには、こころとからだの解明が必要であるといえるのではないだろうか。しかしながら、こころといっても、例えば、ジグムント・フロイトによると、こころの大部分は無意識が占めていて、ほとんど解明されていないということのようだ。もちろん、様々な考え方、見方があるだろう。では、からだの方はどうだろうか?比較的、理解しやすく感じるものの、こちらのほうも神秘の小宇宙のように思える。もちろん、様々な考え方、見方があるだろう。

 

 さて、中島敦の作品だ。 率直に次のように思わざるを得ない。

「これまた、濃厚でこってりした作品に仕上がっとるなぁ〜。」と。いや本当に。(笑

 

 何事も、とことん突き詰めて考える懐疑的な悟浄は、もちろん、中島敦自身に違いない。この文脈で、中島敦自身の考えが垣間見れ興味深い。

 

 この作品において、フィロソフィカル・クエスチョンが随所に織り込まれているのだが、これらは、大きな問題だ。そして、どのように考えるか、どのようにアプローチするかということは、人によって違いが生じるところだろう。もちろん、時には、コントラバーシャルな場合もあるのかもしれない。

 

〇 自己、自分自身とはなにか?

 

〇 世界とはなにか?自己なくして世界は存在するのか?

 

〇 時間とはなにか? (現在〜過去〜その瞬間との関係性)

 

〇 記憶と自己

 

〇 死生観について

 

  さて、、、、、、。

 


 


 

 

 

 

 

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「科学者とあたま」寺田寅彦著

 「あたま ヘッド」とはなんだろうか?、、、あたまとは、、、、

 

「あたま ヘッド」が存在するということは、「あたま ヘッド」以外の部分が存在しなければならないだろう。それから、つぎのように「あたま ヘッド」を使ったりする。「あたまかずにいれる。」などだ。ひとという存在が「あたま ヘッド」で代用されているともいえる。このように考えていくと、「あたま ヘッド」とは、とても重要なひとの存在にかかわる何かであり、認識論 エピステモロジーと 存在論 オントロジーに深くかかわるものであるに違いない。

 

 いつもながらのなんのこっちゃなはじまりで、いたくいたく恐縮するところであるが、、笑、、気を取り直していこう。笑

 

 さて、寺田寅彦の作品だ。

 

 冒頭に出てくる「富士はやはり登ってみなければわからない。」というくだりは、印象的だ。 本当の近道 ショートカットは、実は、遠回りなのではないだろうか。もちろん、短期的には、非効率なことや無駄なことを経験したら、失敗と考えるかもしれない。しかしながら、長期的には、非効率なことや無駄なことの経験、失敗は、実は自らの知識を拡張し、豊かにしているに違いないのだ。この文脈で、失敗は知識だ。

 

 最後に、 「自然のほうが間違っている。」とする姿勢に対し、寺田寅彦が痛烈に警鐘を鳴らすくだりも印象的だ。ここのところは、ひとが陥りやすい難所であり、よくよく気を付けていないと足をすくわれる可能性大だ。

 

 この作品において、どのような姿勢で自然と対峙すべきかが明確に示されていて、興味深い。

 


 

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「言語と道具」寺田寅彦著

 「言語 ランゲージ」。言語、ことば、、ワード、、、。

 

 ぼくは、ときどき、だれかと何かについて話す場合、不思議に思うのだ。その不思議さは、ぼくが考えていること(考えていることの内容が頭の脳の中にあるのか、どこか別の場所にあるのか定かではないが、、ああ、それから、考えているというその行為自体 アクションが、すでに言語に依存、あるいは、言語に制限されていると思われるのだが、それはさておき、、、笑)をダイレクトに相手に送るのではなく、 「言語 ランゲージ」に変換して、それを言葉に発し ボーカライズしてコミュニケーションをとることの中にあるのだ。

 

  いきなりのいつもながらのなんのこっちゃで、恐縮するところであるが、、笑、、気を取り直していこう。笑

 

 だれかが スピーカーが、何かについて「言語 ランゲージ」をつかって話している内容、あるいは世界を、聴き手 リスナーがその内容、あるいは世界を理解したり、イメージしたりするということは、実はとてもとても高度なことだと思うのだ。 

 

 それから、「言語 ランゲージ」は、ひととはどういう存在かということ、つまり人間存在に深くかかわるものだ。もちろん様々な考え方、さまざまなアプローチの仕方があるだろう。ある考え方では、ひとは、「言語 ランゲージ」でコミュニケーションをとる存在だと定義されたりする。いずれにせよ、「ひとはどこからきたのか。」という大きな問題に、「言語 ランゲージ」が深くかかわっているように思えるのだ。

 

 この「言語 ランゲージ」というものは、 たとえば、ひとがひとり、ふたり、さんにん、よにん、、と集まった場合、「言語 ランゲージ」が重要になってくる。コミュニケーションに必要不可欠なものが、「言語 ランゲージ」だ。もちろん、非言語によるコミュニケーションもあるが、より複雑で高次な抽象的概念などの意思疎通には限界があるだろう。

 

 さて、寺田寅彦の作品だ。

 

 まず、チャールズ・ダーウィンの「進化論」をもってくる。「種の起源」、オリジン、、本当にひとは、どこから来たんだろう、、。

 

  寺田寅彦は次のように考えている。言語の存在が知識を生み、知財を生む流れ フローとなる。そして、その知財がやがて、蓄積され、それらを分類するために法則が生まれる。

 

 最後に、印象的だったのは、寺田寅彦が、言語と道具を語りながら、どのように理論と実践を結び付けていったかというところだ。その過程 プロセスは、極めて論理的でスッキリしている。 

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「幸福論」アラン著
「幸せ 、幸福 、ハッピネス」というしろものを考える場合、あまりにも対象が大きく漠然としすぎて、どのようなアプローチをとるべきか考えさせられるのだ。いつもながらの出だしで恐縮するなぁ、、いや、本当に、、笑。だが、気をとりなおしていこう。笑



「幸せ」ってなんだろうね、、、、。考えてみると、確実に次のようにいえるということに気づくだろう。「たいがい、難しいやないか〜い!!」と、、。笑


まずは、手に負えない大きなものは、分けて理解していくというアプローチが思い浮かぶ。ただ、一方で次のような考えも思い浮かぶ。「幸せ」というものがどういうものかということに対する自分なりの考えは、一生関わっていかざるを得ないものであるから、その都度、大まかで、弾力的な考えをもっておくだけで、十分のようにも思えるのだ。つまり、「幸せ」というものをなんとなくわかっているが、わかっていないところもあるという状態にしておけばいいのではないだろうか。もっというと、「幸せ」に対する自分なりの考えを、すぐに取り出せるようにしておき、かつ、その考えを取り出しては、深めたり、更新したりしつつ、「幸せ」に対する自分なりの考えを寝かせておく、スリープ状態にしておくことが、大事なのでは無いだろうか。



ただ、核 コアになる部分は、ある程度、しっかりとはっきりと自分なりに把握しておく必要があるように思われる。



ああ、それと、「幸せ」のことを考えるのであれば、「不幸せ」のこともパラレルに考えるべきではないだろうか。なぜならば、「幸せ」は、時に、「不幸せ」の変装をしていることもあるからだ。もちろん、この逆もある。


さて、ここで、アランの作品だ。アランは、どのように「幸せ 幸福」を考えたのだろうか。幸福をどのような見方、パースペクティブからみた、とらえたのだろうか。まず興味深いのが、「自分自身に依存する幸福」を考えているところだ。自分自身に依存するということは、他人に依存しない、インディペンデントな、独立独歩な幸福と考えられるだろう。リヒャルト・ワーグナーにおいては、彼が自らつくった音楽からくる幸福を、ミケランジェロにおいては、彼が自ら描いた作品からくる幸福を手にしていたと考えているところだ。まずは、自分自身の幸福を求めて、獲得することが大事であり、その段階 フェーズへ到達できたら、他者へ幸福を与えることが可能だと考えている。アランの考える幸福は、自分自身の幸福を第一義的 トップ・プライオリティに考え、「徳 バーチュー」と矛盾しないと考えている。なぜならば、アランは、自分自身の幸福と、自分自身の生命、存在とがくっついている、ワンセット、切っても切り離せないものであると考えているからだ。この文脈で、アランの自分自身の幸福は、自分自身の生命とくっついている、つまりコインの表裏であると考えているのだ。




ところで、アランは、幸福になるためには、どうすればよいと考えたのだろうか。アランが示したひとつの考え方もまた興味深い。幸福になるための第一の規則が述べられている。もちろん、さまざまなシチュエーションがあり、ケースバイケースでもあるだろうが、基本的に共感できるのではないだろうか。



最後に、アランの考える幸福に義務が関わってくるところが、これまた興味深いところだ。とくに次の一文だ。


「幸福になろうと望まないならば、幸福になることは不可能だ。」


つまり、幸福になろうと望まない場合、幸福になれないということだ。幸福という山をひとつひとつ土台から作っていかなければ、幸福という山は、作れないということになる。


アランの考える「幸福」は、簡単に獲得できるものではなく、獲得するために努力が必要で、「義務」、「責務」、「任務」のようなものがともなうものだと考えたのではないだろうか。
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正岡子規の自画像
正岡子規の文字による作品も印象的なのだが、今回新たに見つかった「歳旦帳」に本人による自画像が文字とともに描かれているというではないか。


「こ、これは、、」と思い、早速確認した。笑

まず、その構図に見入ってしまう。文字が川のように流れている横で、左側を向く修行僧のような横顔の正岡子規のたたずまいが描かれている。



和服の感じから顔の表情にいたるまで人となりが伝わってくるように思えた。
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「最小人間の怪」〜人類のあとを継ぐもの〜 海野十三著
形あるものは、いずれ無くなる。では、形の無いものは、無くならないのだろうか。いつもながらの出だしで、今回もまたなんのこっちゃだ。笑。しかしながら、気をとりなおしていこう。笑。


ところで、ひとをひとたらしめるものの要素 エレメントとはなんだろうかと考えた時、もちろんさまざまな考え方、見方、パースペクティブ、レイヤーがあるだろう。例えば、ある見方では、ひとは、魂とからだから成り立っていると考える。この文脈で、例えば、魂はあるけれども、からだが無いということになれば、ひとでは無いということになるのかもしれない。



さて、海野十三の作品だ。どういえばいいのだろうか、なんとも奇妙なストーリーなのだ。海野十三がノンフィクションとして書いているのか、それとも、単なるフィクションとして書いているのかはわからない。ただ、ぼくは、このようなことは、実際起こり得ないことだとは思わないのだ。むしろ、高い確率で起こりうるのではないかと思っている。もちろん、まったくこのようなストーリーを信じないひともいるだろう。それはそれで、まったく問題ない。



ただ、世の中には、なんとも説明のできない奇妙な世界も含めて世界が構成されていると思うのだ。逆にいうと、知っている、わかっていると思っている領域 ゾーンは、世界のほんの一部なのかもしれないとも思えるのだ。
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「妖精の歌」ウィリアム・バトラー・イーツ著
妖精 フェアリー。最近、ぼくは、妖精 フェアリーというものについて、あまりよく知らないということに気づいたのだ。知っていることのすべては、妖精 フェアリーは、小さな人のようであり、羽かなんかが背中に生えていてというぐらいなのだ。笑。妖精 フェアリーに対してポジティブなイメージもなければ、ネガティヴなイメージも無い。


なぜだろうかと考えてみると、やはり文化的背景 バックグラウンドによるものだと思われるのだ。妖精 フェアリーに例えられるぼくの知っているみじかなものはなんだろうかと考えるばかりだ。


さて、ウィリアム・バトラー・イーツの作品だ。妖精が登場するのだ。やはり、古今東西で大切にされているのが、人智を超えた世界観であり、なんとも説明のできない大いなるなにかの存在だ。


妖精の歌 フェアリー・ソング。冒頭から、妖精の加齢について描かれている。「加齢したけど、こころが楽しい、、サウザンズ・オブ・イヤーズ、サウザンズ・オブ・イヤーズ、、沈黙と愛、、安息、、、。」



最後に、妖精 フェアリーという人智を超えた世界観を詩 ポエトリーというアートフォームで表現することでひとびとになにかしらの気づきを与えているように思えるのだ。
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なぜ?
今日は、一つの問いを紹介させてください。



" Why do we only rest in peace ?
Why don't we live in peace too ? "


( なぜぼくらは、(あの世で)安らかに眠るだけなんだ?

なぜぼくらは、(この世でも)安らかに生きないんだ ?)
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「水木しげるのラバウル戦記」水木しげる著
ぼくは、いつも不思議に思っていることがある。それは、「運命 デスティニー」だ。あまりに漠然としていて、恐縮するところであるが、、(笑、、その「運命 デスティニー」というものは、その時には、それがどういうものかはまったくわからない。そのようなつくり、立て付け、アーキテクチャになっている。ただ、時間が経って振り返るとなにかしらの気づきがあるのだからなんとも不思議としか思えないのだ。



さて、水木しげるの作品だ。印象に残るのは、「誰にも先のことはわからなかったが、、」というように水木しげるが回想するところだ。このような書き出しが数カ所ある。


では、誰にも先のわからない世界、レイヤー、プラットフォームにおいて、ひとが生きるということは、どういうことだろうか。さまざまな見方、観点、パースペクティブがあるだろう。例えば、こう考えることもできるのかもしれない。今の今の今は、この世に存在しているが、この今現在の延長線上に未来の自分自身の存在を全く描けない、イメージできない状態、状況にあるということではないだろうか。未来の自分自身の存在をイメージできない理由は、日常が死と隣り合わせという非日常の世界、プラットフォーム、レイヤーに自分自身が存在しているということに他ならないからだ。



最後に、「トペトロの息子の夢」のはなしは、あきらかに、「魂 ソウル」の存在を強く認識させられると同時に、あちらとこちらは、地続きであるということを物語っているように思えてならないのだ。
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「橋」フランツ・カフカ著
「なにかを待つ」という行為 アクションは、一体全体どういうことだろうと思うのだ。いつもながらの問いのはじまりで、いつもながらのなんのこっちゃで恐縮するなぁ、、いや本当に、、笑。




例えば、どこでもいいのだが、どこかの門 ゲートで誰でもいいのだが、誰かが「雨止みを持っていた」場合、この文脈で、文字通り、ストレイトに解釈すれば、雨が降り止むのを待っていたということになる。逆に、雨が上がってしまえば、待つという限定的な行為 アクションから、なにか別の行為 アクションをとる選択肢 オプションが目の前に広がり、自由になる 解放されるとも考えられるのかもしれない。


さて、フランツ・カフカの作品だ。なんともフランツ・カフカらしい感じで、いつの間にか、深く息を吐きながら、頭を軽くかいたり、口からあごあたりを手でさすったりする自分自身に気づいたりするのだ。笑



この作品も、人生のあらゆる場面において、いつの間にか、ふと思い出しているに違いないのだ。
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「井伏鱒二全詩集」井伏鱒二著
鱒 (ます)トラウト。鮪 (まぐろ)でも鯖(さば )でもなく、秋刀魚(さんま)でも鰯(いわし)でも鮭(さけ)でもなく鱒だ。明らかに、この鱒をペンネームに選ぶ井伏鱒二は、魚好きに違いない。おそらく、魚好きということは、だいたい晩酌好きなのではないだろうかと勝手に想像してしまうのだが、、笑。




ところで、鱒は、食べるなら塩焼きがいいのだろうか、それとも醤油なのだろうか、味噌なのだろうか、そんなことはどうでもいいのだが、、、笑。




さて、井伏鱒二の作品だ。魚好きであり、釣り好きである井伏鱒二だからして、作品にも釣りや魚が関係してくる。例えば、「冬の池畔」、「つくだ煮の小魚」などだ。晩酌においては、「逸題」 がある。



井伏鱒二の作品は、絵画で例えるなら、日常の風景を描いているように思える。その風景は、誰の目にも同じように写っていて親しみやすく感じられる。しかしながら、その風景は、当たり前であるが、井伏鱒二の感性 センスによってトリミングされている。しかもその風景画が、時に立体的に見えるのは、彼の生きた激動の時代が色濃く反映されているからではないだろうか。
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「途上」谷崎潤一郎著
ぼくは最近、そのひとが、どういう言葉を使って、なにをどのようにはなすのかに、強い関心を持つようになった。
「だれでも、程度の差こそあれ、たいてい、たいがい、そうやないか〜い!」とツッコミをいれた方も多数いらっしゃると思うが、、、笑、、気をとりなおしていこう。笑。




誰かが、なにかを、直接 ダイレクトに誰かにきく、インタビューする。そこには、なにがある、なにが存在するのだろう。ユーモアのセンスなのか、あるいは、真偽なのか、それとも、真偽に関わる何かだろうか。



誰かと歩きながら、話をする。当然、なにかをきけば、投げかけた問いに対するこたえがかえってくるわけだが、どのような表情で、どんな声のトーンでそのひとがかえすのかで、さまざまなことを判断する材料になるのは間違いないのかもしれない。もちろん、なにをきかれても、眉ひとつ動かさず、表面上、なんら変わったようす、反応 リアクションを示さないひともいるだろう。

さて、谷崎潤一郎のこの作品だ。谷崎自身の作品であるからして、当然ながら谷崎自身の実体験が「文学」というアートフォームにおいて、一定程度、反映されているに違いないのだ。そうであるからして、なにか生々しく、あたまの中で絵が浮かぶ、ビジュアライズされるのが不思議なところだ。若干、怖くもある。笑


湯河が新橋へ歩いている時に、安藤から声をかけられ、ストーリーが展開していく。なんとなく、「刑事コロンボ」のピーター・フォークを思い出すと同時にテーマ・ソングも頭の中で鳴り響いた。笑




最後に、この作品で、二つ印象的な箇所がある。



一つ目は、「偶然と必然」について描かれている箇所。コインシデンタルであったのかそうでなかったのか。ここで考えさせられるのは、その起きた事象は、だれの視点 パースペクティブからであったかという点で、「偶然と必然」が変わりうる可能性 プロバビリティーがあるということだ。

二つ目は、「が、あなたがただいまおっしゃらなかった部分のうちに、実は見逃してはならないことがあるのです。、、、、」
ここは、ひとの性質が巧みに描かれていると思うのだ。というのは、見方には、二通りあって、誰かが「なにをいったか」に注目するやり方と「なにをいわなかったか」に注目するやり方だ。ここのところは、「偶然と必然」との関係性と同じく、実は、一枚のコインの表裏と同じなのではないだろうか。
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「イワンのばか」レオ・トルストイ著
ふと、岸田劉生が書いていたことが、思い起こされるのだが、人物を描く時に、なにが最も大事かというと第一に「目」であり、その次に大事なのが、「手」であるとのことだった。つまり、そのひとがどういう人物であるかということを判断する多くの情報が「目」と「手」に存在することを物語っているのかもしれない。



ところで、ふと目線を落とし、自分の「手」を見てみた。自分の手であるからして、見なくてもわかっているが、確認のために、まじまじと見てみた。笑。何度見ても、「ゴツゴツした」手ではないのだ。ワイルドな手をしていない、、、笑。これはぁ〜、、いったい、、何を意味するのだろう。もちろん、遺伝的要素もあるしなぁ、、、。




さて、トルストイのこの作品だ。イワンが登場する。そうイワンだ。イワンは、兵隊に、戦いのプロフェッショナルであるようにいうのではなく、音楽を奏で歌うように命ずる。また、イワンの国では、金貨を市場原理の道具として流通させるのではなく、金貨そのものを首かざりにしたりして、すぐに足るを知ることとなる。この「足るを知る」あたりは、「老子」に通ずるものだ。



最後に、この作品は、人生において本当に大事なものを考えさせる機会を与えてくれると同時に、立ち止まって、ものの本質を見る、考えることの重要性を示しているに違いないのだ。
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「待つ」太宰治著
駅、空港に港。多くのひとが行き交う場所であり、集まる場所だ。世界と世界をつなぐ玄関口 ポータルサイトであり、門 ゲートとも考えられるのかもしれない。


駅、空港、港のうちで一番好きな場所を選べと言われれば、(あまり言われたことはないのだが、、笑) 次のようにこたえるかもしれない。


「そやねぇ、、まぁ、、あ〜、、あまりに大雑把な質問だからして、こちらとしても、、だいたいでこたえると、、え〜と、、。」という出だしではじまりそうなのは、高い確率で予測できる。(なんのこっちゃ、、笑)


いやいや、この質問が、誰による質問なのか、あるいは、どういう状況、文脈での質問なのか、そして、何より、駅、空港、港と一口に言っても、それぞれの駅や空港や港があり、それぞれに良し悪しがあり、なんとも言えないというのが正直なところだ。


ところで、駅、空港、港は、多くのひとが行き交う場所であるし、集まる場所であるといえる。もちろん、場所や時間帯によっては、閑散としている場合もあるだろう。考えてみれば、さまざまな理由から、あるいは、場合によっては、人びとが多く行き交う、集まる場所は、目的地に行くためには、どうしても通らなければならない、経由しなければならない、集まらざるを得ない場所であるとも考えられるのではないだろうか。


さて、太宰治の作品だ。太宰治は、駅で待っていたのだ。いや、なにかしらほかに理由があり、駅で待っているふりをしていたのかもしれない。いずれにせよ、駅には行っていたことには間違いないだろう。


最後に、太宰治が考えた「駅」は、こちら側のものだったのだろうか、それとも川を越えたあちら側のものだったのだろうか。
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「時の流れ」鈴木大拙
「時、時間 タイム」。

ところで、昼食と夕食のあいだに、なにかしらのおやつ少しとドリンクがあれば、「最高やないか〜〜い!!」と思ったりするのだが、また、いつもながら、そんなことは、どうでもいいことだ、、。笑


考えてみれば、この 「時、時間 タイム」というしろものは、日常生活であたりまえに活用しているが、実のところ取り扱い注意 フラジャイルではないかと思うのだ。ある程度、それがどういうものかを、理解、納得していると思っているが、実際のところ定かではないようにも思えるのだ。さまざまなひとが、いろいろと考えている。これまでの歴史に蓄積された議論、西洋のアプローチに東洋のアプローチがあるようだ。どのような切り口でそれをみていくか、ウォッチするかというところにまずは、糸口があるのかもしれない。



さて、鈴木大拙のこの作品だ。まず、「流れ フロー」に着目しているところが、興味深い。過去〜現在〜未来という流れ、時間軸 タイムラインに対して問い直すのだ。たしかに、「時」は、小さいころから、「川の流れ」のたとえによって、説明されて納得してきたが、そのたとえは、実のところ、正確なたとえかどうかはわからないような気もする。「時」を説明するときに、とりあえずこういうものという、より納得しやすいものを便宜上使用しているというように考えられなくもないのだ。では、これまで例えられてきた「時」以外のたとえは、何だろうか。これは、極めて難しいフィロソフィカル・クエスチョンだ。




鈴木大拙は、「時」そのものの中に生きていると考える。つまり、過去〜現在〜未来というように「時」を分けたり、「時」を「流れ フロー」の連続性のレイヤー、プラットフォームに存在するとは考えないのだ。




最後に、この作品で最も印象的だったのがここだ。「時」そのものの中に生きているというのは、「天上天下唯我独尊」ということでなければならぬ。というところだ。


その都度、何度も読み返して、噛みしめたい作品だ。
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