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HIDE’S ESSAY ( Hideyuki Ishii )

もしよかったら、ぜひ僕のESSAYも読んでみてください。
「阿Q正伝」魯迅著

 「名前 ネーム」って何だろうね。人物の名前ね。

 

 今回もいきなりのなんのこっちゃで恐縮するところだ。(笑

 

 その人物の名前って何だろうね。まず、その人物の実体、存在があって、それにくっついているもの、くっつけったもの、なんだろう。その人物の実体、存在が確かにあるわけだから、名前がなくても、その人物の実体、存在はそこにあり、確認できる。では、人物に名前がない場合、その人物の事について語る場合、どのようにして語るのだろうか?その人物について語るという場合、その人物以外の他者が存在しなければならないということになる。この文脈で、他者の存在が大きなカギ キーになるのではないだろうか。自分以外の存在者、他者の存在だ。他者が存在するといことは、つまり、関係性、相対性 コネクション、レラティビティが生まれると考えられる。

 

 人類は、いつごろから名前を持つようになったのだろうか。名前を持たなかった人類はひとではなかったのだろうか?  、、と、こんな感じでいろいろと考えを巡らせるわけであるが、、そのことはさておき、、、(笑

 

 さて、魯迅の作品だ。1921年だから、だいたい100年前ということになる。

 

 この「阿Q」という人物の名前がどうも、なんとも、どういうわけか、イメージがわかなかった。つかめなかった。なぜなんだろう?これは、魯迅の意図 インテンションなのだろうか? 視覚の観点から考えると、この名前は、漢字と英字で構成されている。単に僕が、自分自身が、慣れていないからだろうか。ここらあたりのこちらがわの自らのこころ マインドの動きは興味深いところだ。

 

 この作品の前半部分は、「阿Q」が何とも言えない感じで描かれている。それが中盤から後半にかけて、「阿Q」がどんどんシリアスな事態に巻き込まれていくのだ。「阿Q」自身は、まわりの状況が悪化しているにもかかわらず、「阿Q」のままなのだ。最後の最後まで、「阿Q」のままなのだ。

 

 最後に、「4年前の山での狼との遭遇」の回想のシーンが印象的だった。狼はつかず離れずの一定距離を保ち、その気になれば、「阿Q」をどうにでもできる。眼だけをいつも光らせている。「阿Q」は、生きた心地がしなかった。このかんじは、現代でもさまざまなシチュエーションを想起させるのに十分ではないだろうか。

 

 そして、この作品の最後の一文は、ひとが否が応でももっているものを鋭く描いているといえるのにちがいない。

 

 

 

 

 

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「深川の唄」永井荷風著

 「動くものに惹かれる。」ということは一体どういうことなのだろうか?

 

 今回もいきなりのなんのこっちゃで恐縮するところだ。気を取り直していこう、、、。(笑

 

 これも唐突だが、、、例えば、ハンドスピナーをとりあげてみたい。とにかく回る。ただ回るのだ。これもおおまかに、動くものであるともいえる。多くのひとが魅了された。ここには、何かがあるに違いないのだ。なにかが、、、。 

 

 人類の歴史という視点 パースペクティヴで考えてみると、やはり、動くものには、動物的に反応せざるを得なかったのではないかと思えるのだ。つまり、おそらく、動くものをよくよく見ていないと、状況によっては、命が危険にさらされたのではないだろうか。 この文脈で、「動くものに惹かれる。」ということは、人類の歴史につながっているようにも思えるのだ。

 

 さて、永井荷風の作品だ。

 

 冒頭、あてもなく電車に乗るところから始まる。永井荷風は、なにかしら「動いているもの」に乗るのが好きなようだ。

電車での人々の様子がいきいきしていて、興味深かった。ここらあたりは、路面電車と同じく、現代社会が何かと引き換えに失った何かがあるように思えた。考えてみれば、あてもなく電車に乗るなんて、合理性、効率性とは、まったく逆のレイヤー、プラットフォームに存在する行為 アクションに違いないのだ。ある意味、無駄と考えられるかもしれない。いや、本当のところ、、無駄だっただろうか、、、この永井荷風の一見、無駄におもえる行為 アクションが、小説というアーティスティックな表現形態、作品という形で昇華されているではないか。

 

 最後に、深川の三味線弾きのくだりのところは、文字で書かれているのにもかかわらず、音 サウンドが、もっと言うと、三味線に枯れた声が、聞こえてくるような気さえした。そして、書斎には、フリードリッヒ・ニーチェのツァラトゥストラが待っているというあたりは、永井荷風の複雑な心境が示されているのではないだろうか。つまり、永井荷風の生きた明治という時代は、伝統的価値観と西洋的価値観が劇的に急速にせめぎあい、価値の転換を永井荷風に迫ったに違いないのではないだろうか。そのようにおもえるのだ、、。そのように、、、。

 

 

 

 

 

 

 

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「破約」小泉八雲著

 ロゴスとパトス。

 

 ロジックとパッション。

 

 論理と情熱、感情。

 

 ひとのなかには、このロゴスとパトスが同居しているのだが、時に、それらが仲良くしたり、時に仲たがいするのだからなんとも難しいところだ。生きるうえで、ロゴスとパトスをどのようにうまくハンドリングするか、できるか、バランスさせるかということは、大きな問題のように思える。もちろん、ケースバイケースなのかもしれない。

 

 さて、小泉八雲の作品だ。冒頭から、なんか、夏に読んだ方がいいかなぁと思ったりしてしまった。(笑

 

 確かにそうなのだ。約束を破ったのは、侍だからして、侍に向かうべきだと思って読んでいた。誰が考えても、論理的には、そうなのだ。間違いない。ロジックとしては、100パーセント、いや1,000パーセントそうなのだ。大きく出た。(笑

 

 ただ、ここで興味深いのは、ひとは、(この作品では、元ひととなるのだが、、元ひとって、、、笑 )必ずしも、いつも論理的な正しさ コレクトネス、正統性 レジテマシーに従って、行為 アクションをなすとは限らないのだ。パトス、パッション、感情に、行為 アクションが支配される、コントロールされることもおおいにありうるのだ。

 

 小泉八雲は、この作品で、なんともいえない情念のようなものを示しているのだが、同時にひとがどういう存在者であるのかということも語っているのではないだろうか。

 

 

 

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「魔女のパン」オー・ヘンリー著

 ヘンリーは、アンリーであり、アンリーは、ヘンリーでもあるなぁ、、と思うのだ。ところかわれば、読み方も変わってしまうなぁ、、、と。そんなことはどうでもいいのだ。いつもながら、、、(笑

 

 ところで、ぼくは、ごはんが大好きで大好きなのだが、、、そのことはさておき、、(笑

 考えてみれば、「ごはん」には、さまざまな意味が重層的に含まれていることに気づかされる。

 

  では、「パン」はどうだろうか。「パン」にも重層的な意味があるのではないだろうか。食べ物そのもの以外に文化的背景や宗教的背景の存在が思い浮かぶのかもしれない。

 

 さて、オー・ヘンリーの作品だ。「魔女のパン」(Witches' Loaves by O. Henry )だ。

 

 ぼくが、例えば、毎日、近所の蕎麦屋さんの横の小さな弁当屋さん(個人経営の弁当屋さん)で日替わり弁当をいつも頼んでいるとする。仮定の話ですよ、。いつも必ず買いに来るので、弁当屋さんの販売員の方が覚えてくれて、認識してくれて、やがて、とりとめもない話もできる間柄になるとする。ある日、たとえば、小さなコロッケ一個をサービスで、おまけで、弁当に添えてくれたりすることもあるのかもしれない。もちろん、この場合、大多数の人にとって、喜ばしいこととしてうけとるに違いない。ただ、注意したいのは、世の中には、いろいろな人がいるということだ。こちらが、よかれとおもってした行為が、裏目に出ることもあるのだ。

 

 最後に、オー・ヘンリーのこの作品は、ある種、人生のリアリズムを示しているといえる。そして、微妙な状況下で、だれにでも起こりうる「思い込み」から生じる行為の危うさをも示しているのかもしれないとも思えるのだ。

 

 

 

 

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「ソクラテスの弁明」プラトン著

 現代社会で、おおくの若い人々をその言葉や弁舌でもって、立ち直らせたり、あるいは逆に、堕落させてしまうようなそんな影響力のあるパワフルな人物がいるだろうか?もちろん、時代的な背景 バックグラウンドもあるだろう。

 

影響力がありすぎるというのも、善し悪しがあり、一概にはなんともいえないような気もする。 様々な考え方があるのかもしれない。難しいぎりぎりのところだ。

 

 ふと、あるフレーズが浮かぶ。’   I have a  dream  ’ だ。

 

 さて、プラトンの作品だ。まずは、首を軽くかいてみたり、手首をぐるぐる回してみたり、肩を動かしたりしてみるのだ。

 なぜならば、本文に入る前につまずいてしまったからだ。(笑 

 

 タイトルがこうきている。 

 

「ソクラテスの弁明」プラトン著 (The Apology of Socrates by Plato)

 

プレイトーによって書かれたソクラテスのアポロジーとなっている。これが、どうして、ソクラテスの弁明となるのだろうか?謝罪という意味のアポロジーではなく弁明なのか?

 

 ここで、「う〜ん、、、。」と、うなるやいなや、素早く、コーヒー・ブレイクへ逃げ込むのだった、、、。(笑 

コーヒーはブラックでいくか、いやいや、マヌカハニーを少し入れるか、、、、、さてさて、、そんなことはどうでもいいのだが、、いつもながら、、、、(笑

 

 そうこうしているうちに、いろいろと調べてみて、このアポロジーは、この作品において、謝罪という意味ではなくディフェンスという意味のようだ。つまり、ああ、ソクラテスは、謝っていない アポロジャイズしていないのだ。プレイトーの記述 アカウントによる法廷でのソクラテスのディフェンスということのようだ。

 

 プラトンの視点 パースペクティブでもってソクラテスのディフェンスを書いているわけだから、当然、プラトンの考えが色濃く反映されているに違いない。ここらあたりは、様々な見方があるようだ。ただ、この作品は、歴史的に多くの人々が読み継ぎ、認めてきたという点において、その価値はゆるぎないに違いない。では、なぜ、この作品に多くの人々が価値を認め、惹かれるのだろうか。

 

 おそらく、正しさ コレクトネス や 徳 バーチュー、人生 ライフ、死 デス などを立ち止まって考えさせてくれる機会を十分に与えてくれるからではないだろうか。「これは、これでいいのだろうか?これとは別の視点はないのだろうか?」と。

 

 プラトンの描くソクラテスは、やはり、とても謙虚で、恐ろしいほど、誠実なのだ。そして、ある意味、アイディアリストでもある。自らが知っていなければ、「知っている。」といわない。あることについて、自らが知らないということを知っている、わかっているのだ。ここらあたりは、「汝自身を知れ」につながる。生き方も質素 シンプルだ。ソクラテスの生き方は、経済的価値をあきらかに超越している。吉田兼好の「徒然草」につながるようにも思えるのだ。

 

 最後に、ソクラテスの人生における「死」についての考え方が印象的だ。どんな人にもおとずれる「死」。決して免れることはできない。そうであれば、その最後の時までにどのように、よりよく生きるかに価値を見出すという考え方もある。ここのところは、様々な考え方があり、コントラバーシャルであり、ぎりぎりのところであり、永遠のフィロソフィカル・クエスチョンだ。 

 

 機会あるごとに、読み返したい作品だ。

 

 

 

 

 

 

 

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「ザ・ハウス・オン・ザ・ヒル」エリザベス・レアード著

 「丘 ヒル」。

 

 その「丘 ヒル」に 家が オン しているのか オーヴァー しているのか と いろいろと考えを巡らせるわけであるが、、、そんなことはどうでもいいのだが、、いつもながら、、、(笑

 

 ところで、ふと、Take 6 の 「Over The Hill Is Home」のあのメロディーとリリックが頭をよぎった。たしかにそうなのだ、、、丘を登った向こうに我が家 ホームがあれば、その丘がどんなにスティープでも乗り越えていけると。いや、なんとしてもたどり着かねばならないのだ。なにせ、なにせ、我が家 ホームなのだから。「なにせ」を二回ゆうた。(笑

 

 さて、エリザベス・レアードの作品だ。「The House On The Hill by Elizabeth Laird」

 

 ポールとマリアがでてくる。最後にエルサだ。とてもわかりやすいストーリーに仕上がっている。

 古今東西、多くの作品が、「愛情 ラブ」というものは、すべてを、どんな障害も乗り越えられるのだろうかという大きなテーマを扱っていることに気づかされる。 

 

 ポールがマリアにポエトリー・リーディングするあたりは、印象的だった。例えば、ポールがギターが得意なら、ギターを弾いただろうし、、、、と様々な表現の仕方があったのかもしれないなぁと思ったのだ。

 

 さて、この作品に出てくる明確な対立軸に注目したい。ある種、伝統的な形式、フォーマットなのかもしれない。ああ、ウィリアム・シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」にも明確な対立軸がある。 

 

 ポールはプアーでマリアはリッチ。

 ポールはドリーマーでマリアはリアリスト。

 ポールの家はリトルでマリアの家はビッグ。

 ポールの母はあたたかく、マリアの母は冷淡。

 

 最後に、ポールは、「気づく」のだ。(ポ、ポールにいさ〜ん、気づくのがだいぶ遅いやないか〜いとツッコミを入れた方も多くいらっしゃると思うが、、笑)やはり、だれもが、気づくべくして「気づく」のだ。

 

 ポールがエルサに笑顔であいさつするクロージングのところは、実にすがすがしく感じた。

 

 

 

 

 

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「魚の恋」アントン・チェーホフ著

 ぼくは、年に1回ぐらいだろうか、大きな池を前にして、ベンチに座り、ゆったりと過ごすことがある。池の水面に、時おり顔を出すミドリガメにいやされたり、池の周辺を走るランナーをそれとなくみたり、池越しの景色を眺めたりする。春先の晴れの日に、いい風が向こうからこちらへ吹いてくるともう最高なのだ。(笑   いや本当に。

BGMは、トム・ジョビンの「ザ・ガール・フロム・イパネマ」が合うだろうか、、。

 

さて、アントン・チェーホフの作品だ。

 

恋する魚、恋するフナのストーリー。池のフナが美しいソーニャに恋をするのだ。ここで、ぼくは、次のように思うのだ。「チェーホフにいさん、発想はユニークですね、、ですが、、、しかし、しかし、、だいぶ、設定がちからわざですねぇ〜、、、。」と。いやいや、アントン・チェーホフであるからして、フナは、おそらくヒトをあらわすメタファーにちがいないのだ。この地上の生物という意味において、ひとも魚もおなじであると考えることができるのかもしれない。

 

 ソーニャに思いが届かなければ死しかない。というような考えは、アントン・チェーホフ自身の考え、自身の境遇だろうか、身分制社会のことなのだろうか、不平等のことだろうか。何なのだろう。あるいは、この時代のレジームか何かなのだろうか。。。

 

 最後に、このフナが気がふれて、インフルエンサーとなって詩人にペシミズムを、、、というところは印象的だった。

 

 アントン・チェーホフが、この時代、世界をペシミスティックに見ていたのだろうと考えられる一方で、このような作品を書くということ、すなわちアーティスティックな言語表現でアウトプットすることでアントン・チェーホフ自身、あるいは読者が、もしかしたら、救われたり、癒されたりしていたのではないかと思えなくもないのだ。

 

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川瀬巴水

 清洲橋に荒川、不忍池に品川、そして浅草。

「ああ、こんな感じだったんだ、、、。」とおもい、しばし感慨にふけるのだ。木造家屋に、木造船、なんとも癒されるではないか。

 

  ところで、シン、ニュー、ネオ、ノバ、、、。

  先人たちが構築したなにかを再構築、再定義、あるいは、破壊、そして創造というプロセスを経るのかもしれないが、何かしら新しいものを生み出していく。乗り越えるという表現がいいのだろうか。守破離だろうか。歴史的必然にも思えるし、ダイアレクティークのようでもある。

 

さて、川瀬巴水の作品だ。とにかく美しい。構図なのか色彩なのか何なんだろう。

 

最後に、川瀬巴水の「あお ブルー」が印象的だ。昼空の色から夜空、そして海の色にいたるまで、、、。濃淡 グラデーション。

 

 

 

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アイ・コンタクト

 ことばによるコミニュケーションではなく、目と目でコミュニケーションをとる。アイ・コンタクトだ。

 ことばによるコミュニケーションは、ひととひととの間でなされるだろう。

 その一方、アイ・コンタクトは、ひととひとの間だけではなく、ひとと動物のあいだでもなされるだろう。

 

 しかし、しかし、映像で見たけれど、チーターがスポーツ・ユーティリティー・ビークルに乗り込んできたら、アイ・コンタクトはできんなぁ〜。(笑 

 

 まあ、でも、考えてみたら、チーター側からしたら、人間の方が、自分たちのテリトリーに勝手に入ってきて、、、と思っているのではないだろうか。。。

 

 

 

 

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「マイ・ハート・リープス・アップ」ウィリアム・ワーズワース著

 最近、さくらの花見の季節で、ふとつぎのように思うのだ。「さくらは美しいな。好き、さくら。」いや本当に。(笑

 

 花見というと、千鳥ヶ淵、乾通りや上野公園などのメジャーどころが最高だろうなぁと思うわけだ。これはこれでいい。

ただ、その一方で、近くの名もない公園に咲いているさくら、ひっそりと咲いているさくらなどのマイナーどころも最高ではないかと思うのだ。ぼくは、最近、このマイナーどころのさくらに注目している。マイナーどころって呼び方があっているかどうかわからないが、、それはさておき、、(笑。

 

 このマイナーどころのさくらに注目するこころ マインドはどのようになっているのだろうか?ぼくは次のように考えるのだ。みずからの外に存在する対象になにかを求めるのではなく、こちら側のこころの内に、つまり内面にといかけているのではないだろうかと。

 

 

さて、ウィリアム・ワーズワースの作品だ。

 

 「ウィリアムはどこからきたのかなぁ?」とだれかがきくと、 

 「えっとねぇ〜、、。たぶん、ことば (words) に価値を置く (worth) ところからではないかなぁ、、、。」とだれかがこたえる、、

 

 てなことを、

 ウィリアム・ワーズワースにたいしてふと思ったりなんかするのだが、それはさておき、、、、(笑

 

  ところで、1770年生まれのウィリアム・ワーズワースだから、二十歳前後で1789年のフレンチ・リボルーションに遭遇していることになる。もし、ぼくが、あなたが、この時代に生きていたなら、何を考え、どのように生きたのだろうか?この時代の「正しさ コレクトネス」、「正義 ジャスティス」とは何だったのだろうか?

 

 自由に平等、そして博愛。現代社会において当たり前に思える、これら「自由、平等、博愛」。でもね、、これらは、よく、よ〜く見ておく ウォッチしていないといつのまにか消えてしまうかもしれないような種類のものであるということを歴史が示しているとも思えるのだ。もっというと、「自由、平等、博愛」は、いつもあらゆる角度、全方位からチャレンジされる存在であると思えるのだ。人類の歴史的観点から考えても1789年は、やはり大きな転換点に違いない。アンシャン・レジームが倒れるわけだからね、、、やっぱり、激動の時代だったに違いない。

 

 ウィリアム・ワーズワースの作品の「My Heart Leaps Up」が印象的だった。

 

 空に虹がかかって、生と死があって、ナチュラル・パイエティがこの短い作品に出てくる。ふと鴨長明の「方丈記」が思い浮かぶ。

 最後に、「The Child is father of the Man」のところは、コペルニクス的転回であり、なにかしらの循環 サーキュレーションや価値の転換のイメージにつながるように思えた。

 

 

 

 

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「話し声」星新一著

 声ってなんだろうね。声ってね。ボイスってね。

 

 ひとりの声、ふたりの声、さんにんの声、よにん、、一声、二声、三声、四声、、、。

ああ、ボイシングといえば、ドロップ・トゥーがいいサウンドしよるんだなぁ。しよるって、、(笑

ビル・エヴァンスのウォルツ・フォー・デビーでドロップ・トゥーが使われているんだけどね、、ここのところで、

 

トゥ、トゥ、トゥ、トゥ、トゥ、トゥ、トゥ、トゥ、トゥ、トゥ、トゥ、トゥ。

このようにして、、サウンドをことばで表現する限界を感じるわけであるが、、それはさておき、、(笑

 

 

 声 ボイスって、やっぱり、、人間存在に大きくかかわってるに違いないのではないだろうか。

 

 こうもいえるのではないだろうか、ひとは声を持つ存在者だと。「あのひと、あの声」。

  指紋に声紋、生体認証 バイオメトリックス。

 

 「声でわかったよ。」と何度、思っただろうか。

 

 さて、星新一の作品だ。

 

 ぼくは、こう思うのだ。

 

 「なにも人間だけが、この惑星 プラネットのすみかに住んでいる、暮らしているわけではないのだ。」と。

 この文脈で、なんとも不思議な現象、科学や常識を超えたなにかにでくわすことの方が、当たり前ではないかと考えたりするのだ。

 

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オーディオ・ブックス・リリースのお知らせです。

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最近、次のように思うんですよ。

ハンナは、ハナであり、ハナは、花でもあるなぁ、、、、と。言葉遊びのようではありますが、、、(笑

 

よかったら、ぜひ聴いてみてください。シンプルなポエトリー・リーディングとなっています。

 

' Hanna '  (Hideyuki Ishii)(音楽、ポエトリー、ナレーション、アルバム・カバー・アート by Hideyuki Ishii)

 

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「侏儒の言葉」芥川龍之介著

 

 だれかになにかをおくる、差し上げる、プレゼントするときに、次のようにいうことがあるかもしれない。 

 

「つまらないものですが、、、」とか

「大したものではないんですが、、」などがある。

 

 ここには、やはり贈答文化における文化的伝統が感じられる。海外の文化にはないところのものだ。(異文化におけるコミュニケーションにおいては、何よりもシンプルさが最優先されると個人的には思っているが、、、それはさておき、、、)

 

「つまらないものですが、、、」とか

「大したものではないんですが、、」といったからといって、本当に「つまらないもの」とか「大したものではないもの」をおくる、プレゼントするわけではないのだ。。

 

 さて、この文脈で、芥川龍之介の作品に触れたい。

 

「侏儒」とは、「小人」とか「一寸法師」とか「見識のない人」のことのようだ。では、「侏儒の言葉」を例えば、「一寸法師の言葉」あるいは、「見識のない人の言葉」とシンプルに置き換えることが可能なのだろうか。ここらあたりは、十分注意する必要があるのだ。

 

 レオ・トルストイの「イワンのばか」は、本当にというか、、ある視点からみて本当に「ばか」だったのだろうか。言葉に、何層もの 複数のレイヤーが背後に隠されているのだ。

 

 ところで、この作品は、格言、戒め、短い文章、つまり、アフォリズムで構成されている。(ああ、フリードリッヒ・ニーチェのツアラトゥストラが想起されるなぁ〜、、あれは、読むのにしんどかった、しんどかった、二回ゆうた。いや本当に、、それはさておき、、笑)格言、短い文章には、もちろん一長一短ある。簡潔に、真理に切り込むことができる一方で、短い文章であるがゆえに説明不足が生じ、誤解を生む恐れがある。

 

 この作品のすべてを取り上げたいところだが、この作品が示しているようにコンパクトなエッセイにしよう。(笑)

 

 例えば、「二宮尊徳」をどのように考えるのかという視点 パースペクティブは、興味深かった。こちらがわのみずからの中に複数の視点、考え方を常に持つことの重要性が示されているように思える。かりに、みずからの視点に限界を感じるならば、ほかの人の考え方に、こころ マインドをオープンにする必要があるのではないだろうか。

 

 それから、「瑣事」においては、芥川龍之介の「幸福論」の一端が垣間見えるのではないだろうか。

 

 最後に、「人生」において、否が応でも、どのように進んでも、突き当たる「矛盾」、「不条理」にどのように対処していくのかということは、永遠のフィロソフィカル・クエスチョンだ。この作品は、それらの問題に対してヒントを与えているように思えてならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「ザ・ストレンジャー」ノーマン・ウィトニー著

 

 ぼくは、いつもながら思っていることがある。

 

 それは、「正しさ コレクトネス」とは何か、ということだ。とても、とても難しいのだ。これが、いや本当に。(笑 そのことはさておき、、、(笑

 

さて、ノーマン・ウィトニーの作品だ。「The Stranger by Norman Whitney」シンプルな英文、英会話で構成されている。とてもとても分かりやすい。(笑

 

 このストレンジャーであるデイブ・スレイトンが、これがね、、、ビッレッジでコーナー・ショップでね、なんかしよるわけだけど、、(なんかしよるって、、、笑)、、いわゆるカッコつきの ” ひとの手助け ヘルプ ” をするわけなんだけど、、、

 

 最後に、この作品は、「正しさ コレクトネス」というものは、考えている以上に、「誘惑 テンプテーション」の前では、繊細で壊れやすいものであることを示しているのではないかと思うのだ。いつの世にも、どういうわけか生じる実に厄介な問題だ。この文脈で、「正しさ コレクトネス」の脆弱性 バーナビリティーの存在を、いつも、頭の片隅でしっかり認識しておく必要があるのではないだろうか。

 

 アナは、「正しさ コレクトネス」を全うしたといえるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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「恩讐の彼方に」菊池寛著

 「雨垂れ石を穿つ」ということわざがある。雨があの固い石に穴をあけるのだからものすごいことだ。

 では、だれかが、ひとりで洞窟を掘り進めていたとしたら、、、なんのために、、。

 

さて、菊池寛の作品だ。冒頭から、激しい痛みの伴うシーンが印象的だ。このイントロダクションが実に鮮やかすぎるほどにキレているのだ。本当にキレているのか、いや、キレているのだ。(笑

 

どういうわけか、パブロ・ピカソの「闘牛と闘牛士」の絵が浮かんできた。それはさておき、、。

 

 市九郎のなした行為 アクションとその心 マインドの動き。ここらあたりは、偶然と必然、善と悪など、対立すると思われるものが一瞬の何かのきっかけにより、あっという間に反転することが描かれていて引き込まれるところだ。まさに、表裏一体、コインの裏表であることが示されている。

 

 市九郎と実之助。

 

 ぼくが、市九郎の立場だったらどのように行動しただろう。ぼくが、実之助だったら、どのように考えただろうか。これだけでも様々に考える余地があるというのに、ここで石工たちが登場する。このことは、かかる事態を、より複雑で高度な問題へと一段上に押し上げるのだ。より解決 ソリューションが困難になる。

 

 後半部に出てくる「岩壁に向って鉄槌を下す音」と「経文を誦する声」に実之助が反応するところが、興味深かった。

 

 最後に、市九郎と実之助、双方のとった行為 アクションは、「恩情」と「うらみ」、つまり、ラブ・アンド・ヘイトを超えたレイヤー、プラットフォームに到達していたと思える。ただ一方で、このような考え方は、西洋の近代合理主義とは、あきらかに衝突するのではないだろうか。ここらあたりは、森鴎外の「高瀬舟」にも通ずる。

 

 つまり、ぎりぎりのところを、もっというと、永遠のフィロソフィカル・クエスチョンを菊池寛は、この作品を通して示しているに違いないのだ。

 

 

 

 

 

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「若き詩人への手紙」ライナー・マリア・リルケ著

 ライナー・マリア・リルケが若き詩人 ヤング・ポエットに助言をおくっているのだ。

 

「若さ」は、ときに強くもあり、ときに弱くもあるのではないだろうか。もちろん、このことは、同様に「若くないこと」にもいえることだ。(当たり前やないか〜い!!とかるく右手の裏拳で突っ込みを入れるのだが、、そんなことはどうでもいいことだが、、、笑)

 

 「若さ」とはなんだろうか。え、え、〜っと、、若さ、、若さ、、柔軟であること、、固まっていないこと、、これからであること、、色でいうと青いこと、、音でいうととがっていること、、ティーンエイジャー、、、年老いていないこと、、熟していないこと、、経験が不足していること、、などなど、、、様々な文脈で「若さ」を考えることができ、ある一面を切り出すことができるだろう。

 

  ああ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの「若きウェルテルの悩み」が想起されるなぁ。音楽でいうと、「The Ballad of The Sad Young Men」のメロディーがとてもとてもゆっくりながれるなぁ、、そのことはさておき、、、。

 

 年齢を重ねてふりかえると、なんということもない、とるにたらないことだったなぁと思えることも、その当時の若い自分自身にはわからないのだ。ここらあたりは、なんともどうもこうもしようもない人生の仕組みというか、アーキテクチャというかなんというかそういう作り、立て付けになっているのだ。この文脈で、フランツ・カフカも「性急さ」の危うさを示しているのではないだろうか。大海原を高速で進むボートは、ゆっくり進むボートに比べてまわりを見渡す余裕がないためになにかしらの問題に直面しやすくなるのではないだろうか。

 

 さて、ライナー・マリア・リルケの作品だ。どのように若き詩人 ヤング・ポエットに助言をおくったのかが書かれていてとても興味深かった。もちろん、考え方がよく理解できた。

 

 「根拠」、「こころの最も深いところ」、「告白」、「死」などが、とても印象的なことば ワードだった。

 

 ああ、それから、なにかしらの助言、アドバイスをもらえるということ、もらえることができる環境にあるということは、実にありがたいことではないだろうか。もちろん、助言、アドバイスをもらう側、こちら側のこころ マインドしだいだが、、、、。

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「植物人間」蘭郁二郎著

 

例えば、旅先でいきなり、行き交う人のひとりから次のようなことをきかれたら、どのようにこたえるだろうか?(もちろん、ありえないはなしであり、設定に無理があり、ひどく恐縮するところであるが、、、笑、。)

 

 「あ、あの〜、、不躾で恐縮しますが、、あ、あの〜、、あなたは、、何人間ですか?」と。

 

さて、ここでは、こたえるというより、まず、逆になんでそのようなことを聞くのかと思うのではないだろうか。もちろん、聞き手 インタビュアーがどういう人物であり、どのような文脈 コンテクストできいているのかが重要になってくることは間違いないだろう。

 

さて、蘭郁二郎の作品だ。

 

ひとという存在者は、動物 エニモゥの仲間なのだろうか、それとも 植物 プラントの仲間なのだろうか。そして、動物 エニモゥと植物 プラントの違いはなんなのだろう。さまざまな切り口があるだろう。例えば、運動する、活動する、アクティブかどうかという視点から違いを判断するやり方もあるのかもしれない。

 

最後に、蘭郁二郎の示した発想 アイディア、視点 パースペクティブは、実に興味深かった。

 

  ひとという存在者は、生きとし生けるものの大きな輪 サークル、関係性 レラティビティの中でしか生きられないというメッセージでもあると受けとめられるし、植物を見る視点 パースペクティブ プラットフォーム レイヤーをより豊かにしたに違いないのだ。

 

 

 

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「自伝と書簡」デューラー著

 

ふと思うのだ。「手紙 レターと日記 ダイアリーとどのように違うのだろうか。手紙は、時に日記になったり、またその逆になったりすることもあるのではないか」と。いつもながらのいきなりの問いで恐縮するところであるが、気を取り直していこう。笑

 

まずは、「違うこと」よりも「同じこと」、もしくは似ているものを探したい。(ひとがひとを理解する手順 プロトコールも、まず、違いより、同じものを最優先で探したいものだが、場合によっては、なかなかうまくいかない現実もあるのかもしれない。それはさておき、、笑)

 

 手紙も日記も「書く 記す」という書き手によるアクション、プラットフォームを共有 シェアしている。その他にもいろいろと考えられるのだろう。

 

では、手紙と日記の違うところを考えたい。大きく二つあるのではないだろうか。その一つ目は、書き手がどのような意思、どのような理由をもって「書く 記す」のかということ。二つ目は、その「書く 記す」というアクションをとった後の書き手のとるアクションではないだろうか。

 

 手紙にしろ日記にしろ、ひととなりがわかり貴重であることに間違いないのだ。ときに歴史的事実がひっくり返ることさえあるのだから。

 

さて、アルフレッド・デューラーの書簡だ。この作品は、文字だけではなく絵画も添えられている。ものすごい絵画だ。アルフレッド・デューラーは、この時代になにを考え、どのように生き、誰にたよりながら生計を立てていたのだろうか。書簡 手紙のやりとりから、その一端が垣間見れる。

 

まずは、1498年の自画像に圧倒される。今から、約500年前だ。 ロングヘアーのアルフレッド・デューラー。この当時、このデザイン モード 衣服にはどのような意味があったのだろうか。それから、アルフレッド・デューラーの家族の肖像画も印象的だ。

 

この書簡の中で、ニュルンベルクのヴィリバルト・ピルクハイマーとのやりとりの中で印象的だったのは、アルフレッド・デューラーがアートの事ばかりを考えて生きることができなかった、許されなかったということだ。書簡の中で宝石商、金細工師が出てきたり、作品である絵と宝石のついた指輪交換を考えたりと、とにかく作品のみならず、ビジネスのマネジメントにエネルギーを注がざるを得なかったという境遇が記されている。それでも、しっかりした作品を残しているところは、たくましささえ感じるのだ。とても、あのアルフレッド・デューラーの自画像のあの感じからは想像できないが、、いや本当に。(笑、。

 

 最後に、アルフレッド・デューラーの絵画作品を先に知り、この書簡を後から知ったわけだが、あらためて、アルフレッド・デューラーの絵画作品を鑑賞する際に、より立体的に鑑賞できるようになったのではないかと思えるのだ。この文脈で、この書簡はとても貴重だといえる。

 

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「こころと人生」河合隼雄著

 ふと次のように思うのだ。「ひとりは、ふたりであり、さんにんなのだろうか。」と。ソロ、デュオ、トリオ、、、、。

 今回も、いつもながら、いきなりのなんのこっちゃで恐縮するところだが、気を取り直していこう。(笑

 

 さて、河合隼雄の作品だ。

 

 タイトルが、「こころ」、そして、「人生」ときている。このどちらとも、とても、とても、(とてもを2回ゆうて強調した、、そんなことはどうでもいいのだが、、笑、、気を取り直していこう、、。)取り扱いに注意を要するもの フラジャイルであり、とてつもない大きなものだ、断言できる。この二つのとてつもない大きなものを取り扱う ハンドリングできる、言葉で表現できるということ自体、ものすごいことだと思うのだ。ぼくには、もちろん、もちろん、できない。不可能 インパッシボゥ〜だ。いや本当に。

 

 この作品には、ヒント、ティップスがいっぱい詰まっている。とにかく考えさせられる。

 

たとえば、

 

カール・グスタフ・ユングの個人的経験と気づき。

 

あちらの世界とこちらの世界のどこに身を置き、バランスさせるか。

 

成熟 マチュアリティーについて。

 

自分というまわりに支えられる存在者。

 

不可避な臨終をどのように考えるか。

 

さて、、、、。

 

 

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「お貞の話」小泉八雲著

 

 ぼくは、最近、時計回り クロックワイズは、なぜ左回りではなく、右回りなのだろうかと思うことがあるのだ。いつもながらのなんのこっちゃで恐縮するところだ。気を取り直していこう。笑 

 

 あ、そういえば、禅の円相も時計回りの一筆書きだ。そして、「輪廻転生」という漢字のなかに「回」が入っている。この「回」がかかわるところのものは、実は、なにげなく大きな問題だと思うのだ。

 

 さて、小泉八雲の作品だ。

 

 まず、この作品に癒された。なぜ、そのように癒されるかというと、「何とも言えない不思議さ」に包まれているからだ。そして、いつのまにか、この「何とも言えない不思議さ」は、「ああ、あれは、いつだったっけ、、自分にもそういえば、、これに似た経験があって、、うん、思い当たる節がある。。」と自らの経験を思い出したりした。(この時点で、もうぼくのこころは、もっていかれとった、、いや本当に。笑)

 

  最後に、「こころ 魂 マインド ソウル と からだ バディー」をどのように考えるかは、それこそ、ひとそれぞれだろう。ただ、人生において、「何とも言えない不思議さ」を経験して、深く印象に残っている人にとっては、少なからずこの作品は響くのではないだろうか。

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あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

平成30年 新春

石井英之

Happy New Year To You !!

Hope you enjoy this year 2018 !!

Thank You!!

Hideyuki Ishii,Tokyo,Japan.

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「言語起源論 〜旋律と音楽的模倣について〜」ジャン・ジャック・ルソー著

 

ぼくは、今の今の今、(今が3回も出てきとるやないか〜い!!とすかさず、ツッコミを入れるのであるが、、それはさておき、、笑)「話すこと」が出来る 、可能であるということが、実は、とてもありがたいことであると改めて認識するようになった。(いきなりのなんのこっちゃで恐縮しきりであるが、、笑、しかしながら、気をとりなおしていこう、、笑。)

 

  仮に、ぼくが、「話すこと」が出来ないとすれば、どのような理由が考えられるだろうか。さまざまな理由が考えられるだろう。うん、いろいろあるだろう。

 

 この世に生を受け、「話すこと」が出来るようになるには、とにかく、第一に、ひとに育てられなければならないのだ。当たり前だが、オオカミでもなく、他の動物でもなく、マシーンでもなく、ひととの関わり、関係性、社会性、文化的バックグラウンドにおいて育つ必要があるのだ。この文脈で、「話すこと」ができる、可能であるということは、ありがたいことであり、深く人間存在に関わっているに違いないのだ。

 

さて、次に、「話すこと」と「うたうこと」はどのように違うのだろうか。違うとすれば、どのくらいの距離感、温度差で違うのだろうか。現代社会のそれら二つの取り扱い方 ハンドリングの仕方は正しいのだろうか?

 

あ〜、、それから、それから、「語るように歌い、歌うように語る。」という表現は、何を示しているのだろうか。

 

  例えば、はじめは、なにかを話すのだが、そのうち、情熱がほとばしり、歌になるというような流れは、(飛行機が滑走路を走り、加速して離陸する テイク・オフするようなイメージであるが、、笑) 現代社会にとってどのような意味をもつのだろうか?

 

いろいろといつもながら、ふつふつと沸いてくるさまざまな問いの前で、立ちすくむわけであるが、、(笑

 

 

  ここで、ジャン・ジャック・ルソーの作品だ。言語 ランゲージの起源 オリジンについてのエッセイだ。メロディーとミュージカル・イミテーションの関係性も考察されている。

 

 

さまざまな視点が示されていて、随所で鋭い洞察が垣間見られ、ぼくはもう、たじたじだった。いや本当に、、笑)    

 

 

  この作品の冒頭が印象的だ。ジャン・ジャック・ルソーは、次のように考えているのだ。ひとをひとたらしめているのは、「ことばを話すこと」によると。つまり、ひとを「ことばを話す」存在者であると考えているのだ。

 

  それから、話しことばが文字という記号によって表記される時、そこには、変換されているわけであるから、当然、そこには、なにかしらの「ロス」が生じているに違いない。話しことばと文字表記の関係性についての視点 パースペクティブも興味深いところだ。

 

 旋律 メロディーについては、そのひとりひとりにとって知られた旋律 メロディーや理解できるフレーズのみが、こころに響く コネクトするというところがとても印象的だった。このことは、その人その人の育ってきた文化的バックグラウンドが関係しているということを示しているようにも思える。

 

最後に、ジャン・ジャック・ルソーは、歌と音声言語は、共通の起源 オリジンを持つと考えたのだが、どのようにして、そのような考え方に至ったのかという論理展開がとても印象的だった。

 

   

 

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「秋」 ライナー・マリア・リルケ著

  ライナー・マリア・リルケ。

 

  ぼくは、ライナー・マリア・リルケの作品に触れるたびにいつも思うのだ。

 

 「ああ、なんて難解なんだろう。」と。

 

  しかしながら、この作品は、比較的入りやすい気がした。

 

   それにしても、プラハのまちは、フランツ・カフカにライナー・マリア・リルケを生んでいるのだ。

  

    まちという場所なのか、時代なのか、それらもろもろの条件があるとき重なり合い、まるでビッグバンのようにスパークした結果なのだろうか。

 

   これは、偶然なのか必然なのか。

 

   プラハにはなにかがあるに違いない。

 

    カレル橋は、なにを見てきたんだろう。

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「落葉降る下にて」高浜虚子著

 この季節、まちは、イエロー・カーペットでおおわれる。決して、レッド・カーペットではない。いやいや、なんのこっちゃ。(笑 

 

 自然界は、時の流れとともに、木の葉を緑色から暖かい色に変え、まちに葉を落とすのだ。フォーリン・リーブスだ。フォーリン・ラブではなく、フォーリン・リーブスだ。(笑

 

 考えてみれば、自然というものは人間界にどんなことがあろうとも容赦なしのように思えるのだ。(笑。   いや、容赦なしと考えるこちら側になんらかの不具合が生じているのかもしれない。そもそも自然界は、人間界のものさしでははかれない大いなる世界なのだ。

 

 さて、高浜虚子の作品だ。最後に出てくる一文が印象的だ。

 

「山川が静かにありのままを其の掌の上に載せていれば時は唯静かに其れ等のものの亡び行く姿を見せるのみである。其処に善も無ければ悪も無い。」

 

 善も悪もない世界、レイヤー、プラットフォーム。つまり、自然に代表される「ありのままであるがままでそのままの アズ・イティイズ、レット・イット・ビー」の世界、レイヤー、プラットフォームは、善悪の価値基準、クライテリアを超越していると考えられるのではないだろうか。

 

 最後に、さまざまなことが起こる人生において、だれでも「永遠の別れ」をいやがおうでも経験する。この「永遠の別れ」は、だれにとっても永遠のフィロソフィカル・クエスチョンだ。この高浜虚子の一文は、東洋の人生観、世界観を静かに力強く示しているとともに、「永遠の別れ」というフィロソフィカル・クエスチョンに「気づき」をあたえているように思えてならないのだ。

 

 

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レラティヴィティの不思議

 「レラティヴ、、レラティヴィティ、、レラティヴ、、レラティヴィティ、、。」

 「親戚、、、、相対性、、、、親戚、、、、相対性、、。」このようにつぶやきながらこう思うのだ。

 

「なんか、、つながっとるやないか〜い」と。 笑

 いつもながらのなんのこっちゃで、恐縮するところであるが、、、笑、、気を取り直していこう。笑 

 

 さて、Albert Einstein アルバート・アインシュタインがメッセンジャーに、ティップ代わりに、二つのメモを渡したという1922年の東京での出来事なのだが、気になるのだ。何が気になるかというと、アルバート・アインシュタインが「何を書いたのか」が気になるのだ。原文は、ドイツ語だ。

 

"Stilles bescheidenes Leben gibt mehr Glück als erfolgreiches Streben, verbunden mit beständiger Unruhe."

 

 “A quiet and modest life brings more joy than a pursuit of success bound with constant unrest ”.

( 静かで控えめな生活は、コンスタントな不安に縛られた成功の追求よりもより多くの喜びをもたらす。)

 

"Wo ein Wille ist, da ist auch ein Weg."

 

“ Where there’s a will, there’s a way ”.

( 意志あるところに道はある。)

 

 僕は、この1922年の東京での出来事を次のように考えることができるのではないかと思うのだ。

 

 アルバート・アインシュタインは、相対性 レラティヴィティだけでなく、しあわせ ハッピネスのセオリーも発見していたのだ。この文脈で、この二つのメモは、 アルバート・アインシュタインの幸福論の一端が垣間見えるものに違いない。

 

 ただ、一方で、この世界は、難しいもので、現実には様々な不確定要素があり、なかなかセオリーどおりに事が運ばないことも多々あるのかもしれないともおもったりもするのだ。。。

 

 アルバート・アインシュタインがメッセンジャーに次のように伝えたというのだ。

“ Maybe if you’re lucky those notes will become much more valuable than just a regular tip ” .

( もしあなたがラッキーなら、これらのメモは普通のティップよりもずっと価値あるものになるでしょう。 )

アルバート・アインシュタインの先見性は、このようなところにも表れているのかと驚くばかりだ。いや、本当に。(笑

 

 ああ、それから、この2017年のオークションでこれらのメモを出品した人物が、当時メモを受け取ったメッセンジャーの親戚 レラティヴ というではないか。

 

 また、つぶやいてみたりするのだ。笑

 

「レラティヴ、、レラティヴィティ、、レラティヴ、、レラティヴィティ、、。」

「親戚、、、、、、相対性、、、、、、、親戚、、、、、、相対性、、。」

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「高瀬舟」森鴎外著

船に乗る。船に乗って川や海を渡る。もちろん、様々な船があるだろう。小さな船から、大きな船に至るまで。それから形もいろいろある。丸太をシンプルにくんだイカダ、丸いたらいのような船。カヌーにカヤックにヨットにボート。もちろん、最新鋭のテクノロジーでつくられたメガ・クルーズ・シップなどもある。僕は、船に乗るのが好きだ。大好きだ。(笑 どんな船でも。いや本当に。

 

船も好きだし、川も海も好きだ。変わりゆく景色も好きだ。ポジティブなイメージしかない。想像しただけで頭の中で、BGMがなる。その曲は、「ラ・メール(ビヨンド・ザ・シー」だ。しかしながら、船酔いは、きついな。きついやないか〜い!!(笑

 

それから、、ただ、、いまだに、個人的には、、、、巨大な船が海に浮かんでいることが不思議でならないのだ。(笑、、いや、もちろん、浮力でちゃんと計算されていて安全性が確保されているのは承知しているのだが、、、、。

 

 

さて、森鴎外の作品だ。非常にシリアスであり、永遠のフィロソフィカル・クエスチョンに覆われている。ぎりぎりの究極の選択に迫られた時にひとはどのように行動するのだろうか。そのようなぎりぎりの状態の中でのディシジョン・メイキングだ。当事者は、困難を極めるにちがいない。考えてみれば、現代社会にも同じような状況が生じることもある。そのとき、ひとはどのように対処していくのだろうか。それぞれの人が、それぞれのやり方で身をもってあたるしかないのだ。

 

最後に、この作品には、日本文化の独自性が深く感じられる。それは、特に、弟が喜助を思う気持ち、そして喜助が弟を思う気持ち、もちろん、庄兵衞が喜助を思う気持ちにおいてだ。この独特な考え方は、「心中」にもつながるものであり、「うち」に属する人々にとっては、理解可能だが、「そと」に属する人々には、文化的背景の深い知見がなければ、理解不能であるにちがいないのだ。おそらく、西洋の近代合理主義の考えとは、明らかに衝突する。どちらがどうという話ではなく、違うのだ。ただ違うだけだ。善し悪しのレイヤー、プラットフォームのそとにあるのではないだろうか。

 

沈默した二人をのせた高瀬舟は、どのようにどこにたどり着いたのだろうか。

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「悟浄出世」中島敦著

 「自分自身を知る。」ということは、一体全体どういうことなのだろうか?いや、もっと具体的に考えたい。ぼくは、ぼく自身を知っているといえるのだろうか。知っているとしたらどの程度、なにを知っているのだろうか?

 

いつもながらのイントロダクションで、いきなりのなんのこっちゃで恐縮するところであるが、、、笑、、歩みを進めていこう。

 

「自分自身」は、「自己」、「我」であるといえるだろう。では、「知る」とはなんだろうか。「わかる」、「理解する」と言い換えることができるだろう。もちろん、様々な考え方があるだろう。この文脈で、「自分自身を知る。」ということは、「自己、我をわかる、理解する。」というように言うことができる。ただここには、じつにやっかいで大きな問題があるのだ。それは、「自分自身」そのものがなにかという問題だ。

 

一口に、「自分自身」といっても、「自分自身」には、様々な側面、レイヤーがあって、それらもろもろの構成要素が集積、融合、インテグレートされているので、「自分自身」がなにかという問題はじつにやっかいで大きな問題なのだ。「自分自身」は、限りなく球体に近い多面体のようであり、どの面も「自分自身」の断片 フラグメントと考えられるのかもしれない。

 

 では、「自分自身」をどこからどのように考えていけばいいだろうか、様々な切り口があるのかもしれない。ひとつの大まかな考え方としてあるのが、「自分自身」がこころとからだという二大要素によって成り立っているとする見方だ。この文脈で、「自分自身」がなにかをしるには、こころとからだの解明が必要であるといえるのではないだろうか。しかしながら、こころといっても、例えば、ジグムント・フロイトによると、こころの大部分は無意識が占めていて、ほとんど解明されていないということのようだ。もちろん、様々な考え方、見方があるだろう。では、からだの方はどうだろうか?比較的、理解しやすく感じるものの、こちらのほうも神秘の小宇宙のように思える。もちろん、様々な考え方、見方があるだろう。

 

 さて、中島敦の作品だ。 率直に次のように思わざるを得ない。

「これまた、濃厚でこってりした作品に仕上がっとるなぁ〜。」と。いや本当に。(笑

 

 何事も、とことん突き詰めて考える懐疑的な悟浄は、もちろん、中島敦自身に違いない。この文脈で、中島敦自身の考えが垣間見れ興味深い。

 

 この作品において、フィロソフィカル・クエスチョンが随所に織り込まれているのだが、これらは、大きな問題だ。そして、どのように考えるか、どのようにアプローチするかということは、人によって違いが生じるところだろう。もちろん、時には、コントラバーシャルな場合もあるのかもしれない。

 

〇 自己、自分自身とはなにか?

 

〇 世界とはなにか?自己なくして世界は存在するのか?

 

〇 時間とはなにか? (現在〜過去〜その瞬間との関係性)

 

〇 記憶と自己

 

〇 死生観について

 

  さて、、、、、、。

 


 


 

 

 

 

 

- -
「科学者とあたま」寺田寅彦著

 「あたま ヘッド」とはなんだろうか?、、、あたまとは、、、、

 

「あたま ヘッド」が存在するということは、「あたま ヘッド」以外の部分が存在しなければならないだろう。それから、つぎのように「あたま ヘッド」を使ったりする。「あたまかずにいれる。」などだ。ひとという存在が「あたま ヘッド」で代用されているともいえる。このように考えていくと、「あたま ヘッド」とは、とても重要なひとの存在にかかわる何かであり、認識論 エピステモロジーと 存在論 オントロジーに深くかかわるものであるに違いない。

 

 いつもながらのなんのこっちゃなはじまりで、いたくいたく恐縮するところであるが、、笑、、気を取り直していこう。笑

 

 さて、寺田寅彦の作品だ。

 

 冒頭に出てくる「富士はやはり登ってみなければわからない。」というくだりは、印象的だ。 本当の近道 ショートカットは、実は、遠回りなのではないだろうか。もちろん、短期的には、非効率なことや無駄なことを経験したら、失敗と考えるかもしれない。しかしながら、長期的には、非効率なことや無駄なことの経験、失敗は、実は自らの知識を拡張し、豊かにしているに違いないのだ。この文脈で、失敗は知識だ。

 

 最後に、 「自然のほうが間違っている。」とする姿勢に対し、寺田寅彦が痛烈に警鐘を鳴らすくだりも印象的だ。ここのところは、ひとが陥りやすい難所であり、よくよく気を付けていないと足をすくわれる可能性大だ。

 

 この作品において、どのような姿勢で自然と対峙すべきかが明確に示されていて、興味深い。

 


 

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「言語と道具」寺田寅彦著

 「言語 ランゲージ」。言語、ことば、、ワード、、、。

 

 ぼくは、ときどき、だれかと何かについて話す場合、不思議に思うのだ。その不思議さは、ぼくが考えていること(考えていることの内容が頭の脳の中にあるのか、どこか別の場所にあるのか定かではないが、、ああ、それから、考えているというその行為自体 アクションが、すでに言語に依存、あるいは、言語に制限されていると思われるのだが、それはさておき、、、笑)をダイレクトに相手に送るのではなく、 「言語 ランゲージ」に変換して、それを言葉に発し ボーカライズしてコミュニケーションをとることの中にあるのだ。

 

  いきなりのいつもながらのなんのこっちゃで、恐縮するところであるが、、笑、、気を取り直していこう。笑

 

 だれかが スピーカーが、何かについて「言語 ランゲージ」をつかって話している内容、あるいは世界を、聴き手 リスナーがその内容、あるいは世界を理解したり、イメージしたりするということは、実はとてもとても高度なことだと思うのだ。 

 

 それから、「言語 ランゲージ」は、ひととはどういう存在かということ、つまり人間存在に深くかかわるものだ。もちろん様々な考え方、さまざまなアプローチの仕方があるだろう。ある考え方では、ひとは、「言語 ランゲージ」でコミュニケーションをとる存在だと定義されたりする。いずれにせよ、「ひとはどこからきたのか。」という大きな問題に、「言語 ランゲージ」が深くかかわっているように思えるのだ。

 

 この「言語 ランゲージ」というものは、 たとえば、ひとがひとり、ふたり、さんにん、よにん、、と集まった場合、「言語 ランゲージ」が重要になってくる。コミュニケーションに必要不可欠なものが、「言語 ランゲージ」だ。もちろん、非言語によるコミュニケーションもあるが、より複雑で高次な抽象的概念などの意思疎通には限界があるだろう。

 

 さて、寺田寅彦の作品だ。

 

 まず、チャールズ・ダーウィンの「進化論」をもってくる。「種の起源」、オリジン、、本当にひとは、どこから来たんだろう、、。

 

  寺田寅彦は次のように考えている。言語の存在が知識を生み、知財を生む流れ フローとなる。そして、その知財がやがて、蓄積され、それらを分類するために法則が生まれる。

 

 最後に、印象的だったのは、寺田寅彦が、言語と道具を語りながら、どのように理論と実践を結び付けていったかというところだ。その過程 プロセスは、極めて論理的でスッキリしている。 

- -
「幸福論」アラン著
「幸せ 、幸福 、ハッピネス」というしろものを考える場合、あまりにも対象が大きく漠然としすぎて、どのようなアプローチをとるべきか考えさせられるのだ。いつもながらの出だしで恐縮するなぁ、、いや、本当に、、笑。だが、気をとりなおしていこう。笑



「幸せ」ってなんだろうね、、、、。考えてみると、確実に次のようにいえるということに気づくだろう。「たいがい、難しいやないか〜い!!」と、、。笑


まずは、手に負えない大きなものは、分けて理解していくというアプローチが思い浮かぶ。ただ、一方で次のような考えも思い浮かぶ。「幸せ」というものがどういうものかということに対する自分なりの考えは、一生関わっていかざるを得ないものであるから、その都度、大まかで、弾力的な考えをもっておくだけで、十分のようにも思えるのだ。つまり、「幸せ」というものをなんとなくわかっているが、わかっていないところもあるという状態にしておけばいいのではないだろうか。もっというと、「幸せ」に対する自分なりの考えを、すぐに取り出せるようにしておき、かつ、その考えを取り出しては、深めたり、更新したりしつつ、「幸せ」に対する自分なりの考えを寝かせておく、スリープ状態にしておくことが、大事なのでは無いだろうか。



ただ、核 コアになる部分は、ある程度、しっかりとはっきりと自分なりに把握しておく必要があるように思われる。



ああ、それと、「幸せ」のことを考えるのであれば、「不幸せ」のこともパラレルに考えるべきではないだろうか。なぜならば、「幸せ」は、時に、「不幸せ」の変装をしていることもあるからだ。もちろん、この逆もある。


さて、ここで、アランの作品だ。アランは、どのように「幸せ 幸福」を考えたのだろうか。幸福をどのような見方、パースペクティブからみた、とらえたのだろうか。まず興味深いのが、「自分自身に依存する幸福」を考えているところだ。自分自身に依存するということは、他人に依存しない、インディペンデントな、独立独歩な幸福と考えられるだろう。リヒャルト・ワーグナーにおいては、彼が自らつくった音楽からくる幸福を、ミケランジェロにおいては、彼が自ら描いた作品からくる幸福を手にしていたと考えているところだ。まずは、自分自身の幸福を求めて、獲得することが大事であり、その段階 フェーズへ到達できたら、他者へ幸福を与えることが可能だと考えている。アランの考える幸福は、自分自身の幸福を第一義的 トップ・プライオリティに考え、「徳 バーチュー」と矛盾しないと考えている。なぜならば、アランは、自分自身の幸福と、自分自身の生命、存在とがくっついている、ワンセット、切っても切り離せないものであると考えているからだ。この文脈で、アランの自分自身の幸福は、自分自身の生命とくっついている、つまりコインの表裏であると考えているのだ。




ところで、アランは、幸福になるためには、どうすればよいと考えたのだろうか。アランが示したひとつの考え方もまた興味深い。幸福になるための第一の規則が述べられている。もちろん、さまざまなシチュエーションがあり、ケースバイケースでもあるだろうが、基本的に共感できるのではないだろうか。



最後に、アランの考える幸福に義務が関わってくるところが、これまた興味深いところだ。とくに次の一文だ。


「幸福になろうと望まないならば、幸福になることは不可能だ。」


つまり、幸福になろうと望まない場合、幸福になれないということだ。幸福という山をひとつひとつ土台から作っていかなければ、幸福という山は、作れないということになる。


アランの考える「幸福」は、簡単に獲得できるものではなく、獲得するために努力が必要で、「義務」、「責務」、「任務」のようなものがともなうものだと考えたのではないだろうか。
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