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HIDE’S ESSAY ( Hideyuki Ishii )

もしよかったら、ぜひ僕のESSAYも読んでみてください。
It's Love All Over (Music by Hideyuki Ishii) performed by Hideyuki Ishii 石井英之 !!

It's Love All Over (Music by Hideyuki Ishii) performed by Hideyuki Ishii 石井英之 !!

もう6月になりましたね。さっき正月を迎えたと思ったら、もう6月ですよ。1年の約半分ですよ。いつもながら、オーバーで、わざとらしくて恐縮しますが、、、「さっき」ってねぇ〜(笑

ところで、最近、よく思うんです、しみじみと、、。ウーロン茶をテーブルの上のコップに注ぎながら、、「愛 LOVE」 というものを、なにかに注ぐと、その器が満ち満ちて、これ以上注げないという、いわゆる限界 リミットはあるのだろうかと。いやいや、そもそも、「愛 LOVE」というものは、天秤、はかり、メジャーのレイヤー、プラットフォームの外側にあるのではないかと、、、。いやいや、「愛 LOVE」というものは、プラグマティックであるべきであり、、、、といったようにいろいろと考えてしまいますが、、、それはさておき、、、笑

あ、「愛 LOVE」といえば、、、そういえば、、あ、、、笑

It's Love All Over (Music by Hideyuki Ishii) performed by Hideyuki Ishii 石井英之 !! がリリースされました。

よかったら、ぜひ聴いてみて下さい。AmazoniTunes でもご試聴、ご購入できますよ。

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「途上」谷崎潤一郎著
ぼくは最近、そのひとが、どういう言葉を使って、なにをどのようにはなすのかに、強い関心を持つようになった。「だれでも、程度の差こそあれ、たいてい、たいがい、そうやないか〜い!」とツッコミをいれた方も多数いらっしゃると思うが、、、笑、、気をとりなおしていこう。笑。




誰かが、なにかを、直接 ダイレクトに誰かにきく、インタビューする。そこには、なにがある、なにが存在するのだろう。ユーモアのセンスなのか、あるいは、真偽なのか、それとも、真偽に関わる何かだろうか。誰かと歩きながら、話をする。当然、なにかをきけば、投げかけた問いに対するこたえがかえってくるわけだが、どのような表情で、どんな声のトーンでそのひとがかえすのかで、さまざまなことを判断する材料になるのは間違いないのかもしれない。もちろん、なにをきかれても、眉ひとつ動かさず、表面上、なんら変わったようす、反応 リアクションを示さないひともいるだろう。

さて、谷崎潤一郎のこの作品だ。谷崎自身の作品であるからして、当然ながら谷崎自身の実体験が「文学」というアートフォームにおいて、一定程度、反映されているに違いないのだ。そうであるからして、なにか生々しく、あたまの中で絵が浮かぶ、ビジュアライズされるのが不思議なところだ。若干、怖くもある。笑


湯河が新橋へ歩いている時に、安藤から声をかけられ、ストーリーが展開していく。なんとなく、「刑事コロンボ」のピーター・フォークを思い出すと同時にテーマ・ソングも頭の中で鳴り響いた。笑




最後に、この作品で、二つ印象的な箇所がある。



一つ目は、「偶然と必然」について描かれている箇所。コインシデンタルであったのかそうでなかったのか。ここで考えさせられるのは、その起きた事象は、だれの視点 パースペクティブからであったかという点で、「偶然と必然」が変わりうる可能性 プロバビリティーがあるということだ。

二つ目は、「が、あなたがただいまおっしゃらなかった部分のうちに、実は見逃してはならないことがあるのです。、、、、」
ここは、ひとの性質が巧みに描かれていると思うのだ。というのは、見方には、二通りあって、誰かが「なにをいったか」に注目するやり方と「なにをいわなかったか」に注目するやり方だ。ここのところは、「偶然と必然」との関係性と同じく、実は、一枚のコインの表裏と同じなのではないだろうか。
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「イワンのばか」レオ・トルストイ著
ふと、岸田劉生が書いていたことが、思い起こされるのだが、人物を描く時に、なにが最も大事かというと第一に「目」であり、その次に大事なのが、「手」であるとのことだった。つまり、そのひとがどういう人物であるかということを判断する多くの情報が「目」と「手」に存在することを物語っているのかもしれない。



ところで、ふと目線を落とし、自分の「手」を見てみた。自分の手であるからして、見なくてもわかっているが、確認のために、まじまじと見てみた。笑。何度見ても、「ゴツゴツした」手ではないのだ。ワイルドな手をしていない、、、笑。これはぁ〜、、いったい、、何を意味するのだろう。もちろん、遺伝的要素もあるしなぁ、、、。




さて、トルストイのこの作品だ。イワンが登場する。そうイワンだ。イワンは、兵隊に、戦いのプロフェッショナルであるようにいうのではなく、音楽を奏で歌うように命ずる。また、イワンの国では、金貨を市場原理の道具として流通させるのではなく、金貨そのものを首かざりにしたりして、すぐに足るを知ることとなる。この「足るを知る」あたりは、「老子」に通ずるものだ。



最後に、この作品は、人生において本当に大事なものを考えさせる機会を与えてくれると同時に、立ち止まって、ものの本質を見る、考えることの重要性を示しているに違いないのだ。
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「時の流れ」鈴木大拙
「時、時間 タイム」。

ところで、昼食と夕食のあいだに、なにかしらのおやつ少しとドリンクがあれば、「最高やないか〜〜い!!」と思ったりするのだが、また、いつもながら、そんなことは、どうでもいいことだ、、。笑


考えてみれば、この 「時、時間 タイム」というしろものは、日常生活であたりまえに活用しているが、実のところ取り扱い注意 フラジャイルではないかと思うのだ。ある程度、それがどういうものかを、理解、納得していると思っているが、実際のところ定かではないようにも思えるのだ。さまざまなひとが、いろいろと考えている。これまでの歴史に蓄積された議論、西洋のアプローチに東洋のアプローチがあるようだ。どのような切り口でそれをみていくか、ウォッチするかというところにまずは、糸口があるのかもしれない。



さて、鈴木大拙のこの作品だ。まず、「流れ フロー」に着目しているところが、興味深い。過去〜現在〜未来という流れ、時間軸 タイムラインに対して問い直すのだ。たしかに、「時」は、小さいころから、「川の流れ」のたとえによって、説明されて納得してきたが、そのたとえは、実のところ、正確なたとえかどうかはわからないような気もする。「時」を説明するときに、とりあえずこういうものという、より納得しやすいものを便宜上使用しているというように考えられなくもないのだ。では、これまで例えられてきた「時」以外のたとえは、何だろうか。これは、極めて難しいフィロソフィカル・クエスチョンだ。




鈴木大拙は、「時」そのものの中に生きていると考える。つまり、過去〜現在〜未来というように「時」を分けたり、「時」を「流れ フロー」の連続性のレイヤー、プラットフォームに存在するとは考えないのだ。




最後に、この作品で最も印象的だったのがここだ。「時」そのものの中に生きているというのは、「天上天下唯我独尊」ということでなければならぬ。というところだ。


その都度、何度も読み返して、噛みしめたい作品だ。
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最近鑑賞した映画

 ○ 最近鑑賞した映画 (といっても映画館ではみていないかもしれないなぁ〜。。笑)





' The Imitation Game ' (2014)



マス・マティシャン、アラン・トゥーリング。エニグマ・マシーン。トップ・シークレット。


さて、コードをどのようにしてブレークするのだろうか?トリックは?どのように?何を手がかりに?

そして、コードをブレーク出来たとしても、先方にそのことを知られては、元も子もない。知っていても、最善を考えて、知らないふりをギリギリまでするしかない。


3×12=36個のローターが回転する。このマシーンの感じは、ボブ・モーグのつくったシンセサイザーにもつながるようにも思えた。
最後に、アラン・トゥーリングは、走るのが好きだったようだ。それもアスリートのレベルで。走るのは、何のためだったのだろうか?何のためというより、もしかしたら、走らざるを得なかったのかもしれないと思ったりもした。





ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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' Hidden Figures ' (2016)



この作品で描かれている時代は、激動の時代だといっていいだろう。例えば、キング牧師の公民権運動が象徴的だ。



ところで、ふと思うのだ。「才能に色 カラーは関係あるのか?もちろん関係ない。全く関係ない。ナット・アット・オールだ。」才能というレイヤー、プラットフォームには、その能力の高低という価値基準 クライテリアがあるだけのはずだ。ただ、過去の歴史、その時代や社会的枠組みによっては、当たり前が当たり前でなくなる。この映画で描かれた女性たちの存在を全く知らず、いや知らされておらず、ある意味、驚いた。まさしく、" Hidden Figures "だ。


ここで音楽の話をすこし、、マイルス・デイビスとビル・エバンス。二人のジャイアンツ。おそらく、この二人も、この映画に描かれた時代、社会的枠組みから大きな圧力を受けたのではないだろうか。では、そのような圧力に屈したのだろうか。レジリアンス無しに?



「Kind Of Blue」という歴史的アルバムがその答えを明確に示している。もう一度、「才能に色 カラーは関係あるのか?もちろん関係ない。全く関係ない。ナット・アット・オールだ。」

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。


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' The Age of Shadows ' (2016)


ひととひととが組織化されてティームを作る。例えば、ある危険極まりない目的遂行のためにいったい何が必要となるのだろうか。ギリギリの状態で、ひとをどこまで信頼できるのだろうか。そもそも、どのようなスタンスで仲間とかかわるべきなのか。


この映画は、様々な視点でみることが可能だと思われる。例えば、血のつながりという視点でみることが可能かもしれない。目的遂行のために組織化されたティームには、血のつながりはなく、ファミリーではない。このことは、逆に血のつながり、ファミリーに焦点を当てているとも考えられるのではないだろうか。


最後に、この映画に描かれていることが、よりリアルに身に迫ってくる理由の一つは、昨今の国際情勢の変化、もっというとパワー・バランスの不均衡によるものなのかもしれない。過去の歴史に存在したことは、未来にも存在する可能性も大いにありうるのだ。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。


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「楢山節考」(1983年)

深沢七郎の短編小説の映画化。

 この作品は、人間存在にかかわるとてもとても大事な何か、テーマにふれており、とてもとてもデリケートで、コントラバーシャルに思えるのだ。相反する二つのなにかの境界、バウンダリーをギリギリの状態ですれすれを歩んでいる真っただ中を表現しているといえるのかもしれない。もちろん、さまざまな見方があり、様々な角度から考えることができるだろう。たとえば、種の保存というレイヤー、死生観と文化的背景というレイヤー、母と息子の関係性のレイヤー、極限状態で家族が生き抜くストラテジーというレイヤー、余命をどのように過ごすかというレイヤーなどがあるのかもしれない。

  「姥捨て山」の存在自体がフィクションかノンフィクションかという問題も一方で存在するようだが、それよりもなによりも、極限状況での人間存在にかかわる何かを示している点において、「楢山節考」の存在感たるや、ものすごい。もう一度、ものすごい。(二回繰り返し強調した。笑)

 「もしあなたが辰平なら、、もしあなたがおりんなら、、」と重厚なフィロソフィカル・クエスチョンの前で揺れ動いてしまうのだ。辰平も苦しければ、おりんも苦しいに違いない。辰平を待つ家族も苦しいに違いない。どうしようもない極限状況で、「苦しみ」を共有、シェアしているというようにも考えられる。

 この作品で示されたフィロソフィカル・クエスチョンは、残ったままになっているのだ。ずっと、、、。

 

 ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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雨月物語」(1953年)

上田 秋成 の小説の映画化。

 まず、「本来の姿、あるべき自分」について考えさせられた。

 戦乱の時代を生きる中で、間違うことなく、生き抜くということは、とにかく困難を極めるに違いない。さまざまな誘惑、葛藤、迷いの中、冷静な判断をするということはどういうことなのかと思うのだ。源十郎も藤兵衛も、混乱の中、うごめく欲望をコントロールできなくなってしまうのだ。ある意味、ここは、人間らしい一面が出ていて、思わず共感するところなのかもしれない。そして、家族も巻き込まれていく。もしかしたら、「あやまち、間違い、ミステイク」というものは、その仕組み、アーキテクチャにおいて、すぐには、気づかないつくりになっているのではないかと思えるほどだ。つまり、台風のいかんによっては、その瞬間、台風に巻き込まれているのにも関わらず、台風に巻き込まれていることさえわからないということもありえると思えるのだ。

 最後に、本当に身にしみてわかる、こたえるのは、大事な存在が急に消えてしまったときに違いないのではないだろうか。

 

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「沈黙 SILENCE」(1971年)

 遠藤周作の小説の映画化。今年が2017年であるから46年前の映画だ。

 なにを「転ぶ、放棄する、リナウンス」するのか、これは大きな問題だ。そもそも、そのプラットフォームにおいて、可能なものと可能でないものがある。その限界ぎりぎりの世界に、人の本質が現れるところであり、非常にデリケートな問題が含まれているように思えるのだ。

 100パーセントの何かに対して、100パーセント向き合える人もいれば、80パーセントの人もいるに違いない。キチジローだって、苦しかったはずである。この文脈で、人の限界を試す苦しみの世界において、優劣などなく、ただフラットな世界が存在しているだけなのかもしれない。

  最後に、非常にコントラバーシャルなテーマであり、どこにもソリューションがないのではないだろうか。。

   ただ、こころ、マインドのどこかに、気にかけてウォッチしておかなければならないようなテーマのように思えるのだ。

  ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「恋する惑星」(重慶森林, Chungking Express 1994年)

 

 2017年の1月に、香港を訪れた。宿泊先が、たまたま、チムシャーツイの重慶, Chungking mansionだったのだ。このときは、この映画の存在は知っていたものの、まだ鑑賞していなかった。つまり、この映画が公開されて、23年後に鑑賞した、ようやくたどり着いたということになる。

  映画、アートというものは、本当に恐ろしいものだ。いきなり、どういうわけか、なにかのめぐりあわせや、ふとしたきっかけで、ふところに飛び込んでくる。笑 この文脈で、映画、アートというものは、タイムトラベラーであるといえるのかもしれない。いやいや、それは、鑑賞者のこちら側なのかもしれない。

 Chungking mansion のあのエントランスの感じ、エレベーターなど、ほとんど変わっていなかった。 あの白いタイルの部屋、鉄格子の窓枠もだ。なにより、行きかう人々があの感じなのだ。

  この作品の随所にかかる曲が印象的だ。「カリフォルニア・ドリーミン」なんとも言えない感じだ。まるで時間軸、タイムラインを歪ませるかのような効果、機能があるかのようだ。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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  「博士の愛した数式」(2006年)

なにかの数式を証明する。この映画の冒頭に登場する。「美しさ ビューティ」とはなにかを考えさせられる。

ところで、ここで音楽のはなしを考えてみたい。音楽の「美しさ」とは、何だろう。聴こえてくるサウンド、リズム、雰囲気、、さまざまな観点があるだろう。ひとによって美しさの感じ方、定義、ディフィニッションも違うかもしれない。例えば、美しい音楽を目に見える形にするとする。いろいろな方法があるだろう。音のイメージを絵に描く、あるいは、楽譜におこすという方法があるのかもしれない。楽譜、シートミュージックに音が並ぶ。楽譜に起こされた音符の間隔、インターヴァルや空間、スペース、ハーモニー、調和、それらを総合的にみただけでその音楽は、聴覚を通さずとも非の打ち所がないくらいの美しさが存在していることもあるのかもしれない。それから、虚数、イマジナリーナンバーのところは、虚音、イマジナリーノート、イマジナリーサウンドにも思いを馳せたりした。


この映画の中で、野球のシーンが登場する。考えてみれば、背番号、さまざまな見方があることに気づかされる。ルート記号が背番号とは、おそれいった。笑

背番号を記号というレイヤーで再定義するとするなら、例えば、天気マーク、地図マーク、交通標識などなど、背番号に適用できるでは無いかとふと思う。笑


さて、博士がノックして飛び出していくボールが描く軌道をみて、数学的曲線を思い描く。実際の世界、リアルワールドには、空気抵抗や風などが強固に存在している。これは、認識と実践そのものではないか。この文脈で、数式の世界は、なにものにも妨げられることの無い世界、レイヤー、プラットフォームと言えるかもしれない。
数式の世界は、ロゴス、ロジックの世界だ。まったくパトス、パッションがつけいる隙もないはずだ。ただ、そこには、「美しさ」が存在するのだ。その「美しさ」は、この映画の博士のこころに響くのだ。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「南極料理人」(2009年)



考えてみれば、南極や北極に行ける人々は、ほんのわずかだと気づくのだ。もちろん、どういうところかというのは、映像や伝え聞くところでなんとなくわかるが、、。

この映画の中で、テーブルを囲んで「ラーメン」のはなしのシーンは、なんともユーモラスだった。食は生きるために必要であると同時に、楽しみ、エンターテイメントの一つでもあるのだ。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。


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「廃市(はいし)」(1983年)

 福永武彦の小説が原作。福岡県柳川市がロケ地となっており、川や船、街並みが懐かしく感じられた。もう一度書こう、「懐かしく」感じられた。というのも、こどものころ、福岡県大牟田市に住んでいたことがあり、柳川市は、よく知っているのだ。柳川の川下りはとても有名。さて、この映画は、福永武彦のデカダンスの香りが漂っている。ストーリーをローラーコースターに例えるとくだるときのあの感じだ。うまくたとえられてないような気がするが、、、(笑 

 ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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 「The Trial (トライアル 審判)」(1992年)

 フランツ・カフカの小説「審判」をもとに映画化。カフカ、カフカ、カフカですよ。3回ゆうた。(笑

 そうそうたる俳優陣ですよ。カイル・マクラクランにアンソニー・ホプキンス。ストーリーを詳しく書いていきますね。いやいや、皆さんの好奇心をさまたげることがあってはなりませんから書かないことにしますね。。(ど、どっちやね〜ん! 笑)

 ロケ地がプラハで、懐かしく感じました。「懐かしく」感じました。2回ゆうた。(笑

というのは、チェコ、プラハに行ったことがありましてね、旅行はおすすめですよ。。それはさておき、、(笑

 

 ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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 「たそがれ清兵衛」 (2002年)

 藤沢周平原作の映画化。

 サムライ・ウォーリアーが大切にするものが描かれている。

 最近、時代劇が好き。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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  「許されざる者」(2013年)

クリント・イーストウッド監督作品のリメイク版。

「これは、もうしないんだ、決めたんだ、二度と。」と誓ったものの、どうしようもなく揺れ動く心の葛藤。

最近、時代劇が好き。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「超高速!参勤交代」(2014年)

 参勤交代というものが、本当はどういうものだったのかとても気になる今日この頃だ。(笑

最近、時代劇が好き。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「Ex Machina」(2015年)

この映画のトレーラーを見たときから、何か妙に、惹きつけられた。それは、映画のストーリーによるものなのか、それとも、アリシア・ビカンダーの魅力によるものなのか、それともその両方なのか何なのか今でもよくわからないのだ。笑

さて、ここで問題になるのが、「サーチ・エンジン」との関わり方だ。ごく日常の生活の中で、どのくらい距離を保って関わることができているのだろうか。

ここで、「ルール 支配」というレイヤーを考えてみたい。「サーチ・エンジン」は、調べものをすると一瞬にして、オンデマンドに適切な情報を教えてくれる。便利そのものだ。一方で、自分の嗜好、興味、傾向、みずからに関係する情報の大部分を与えてしまっているのだ。

「敵を知り、己を知れば、100戦危うからず」というたたかいの極意がある。この文脈でいけば、 対「サーチ・エンジン」戦においては、勝つことができないということになるのだ。なぜならば、「サーチ・エンジン」は、こちら側のことを隅々まで知っているからだ。つまり、「サーチ・エンジン」に依存すればするほど、支配される、あるいは、決められたルールを(つくる側ではなく)守る側に立つということになるのだ。この文脈で、ある意味、この映画は、注意喚起しているのかもしれない。


ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「くせ」吉川英治著
「くせ ハビット」。


「くせ」というものは、なにかしら、そのひとがどういう人物であるかということに深く関わっているというように考えることができるだろう。改めて、「くせ」とはなんだろうと考えてみると、これがなかなかのしろものだ。(なかなかってねぇ、、、笑)


ところで、日常生活の中で、例えば、次のように言ったりする。「ここのサバ味噌定食は、くせになる味だ。」とか、「一癖も二癖もあるやつだ。」とか言ったりする。もちろん、そのような「くせ」が社会的ルール内であれば、許容されるが、逸脱すると問題になる。




さて、吉川英治のこの作品だ。家康〜信長〜秀吉ときて、良寛に繋がっていく。良寛の「くせ」は、くせというより、どう考えても、現代社会の枠組みでとらえるなら「ハラスメント」 に当たるに違いない。なぜ、まわりの人たちは、指摘して諌めてあげなかったのか不思議なところだ。いや本当に。笑




この作品で、印象的なところがある。それは、「くせ」というものは、自分のそれには、盲目的 ブラインドであり、他人のそれは、よく見えるというものである。ここらあたりは、「くせ」の特徴的 キャラクタリスティックな側面を示している。つまり、自分の「くせ」が何であるかを自分自身が認識するには、まわりのひとに教えてもらう、指摘してもらう以外に方法がないということになるであろう。



ソクラテスのいう「汝自身を知れ」を考える際、自分の「くせ」を知るには、(つまり、自分のくせを知ることは、自分自身がどういう人物であるかという人間存在に深く関わっていると考えられるわけであるが、) まわりのひとに、良く言われようが、悪く言われようが、その指摘、批判に耳を傾ける、マインドをオープンにセットしておくことの必要性に迫られる。この文脈で、吉川英治は、「くせ」という一つの切り口、観点 パースペクティブから、そのひとがどういう人物であるかという人間存在に関わる何か重要なものを知るには、他者との関係性の中に存在すると考えていたようにも思えるのだ。
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「尼になった老婆」田中貢太郎著
芥川龍之介の「羅生門」、「蜘蛛の糸」、それから、レオ・トルストイの「三つの質問」などは、いつもあたまの片隅にとどめておいて、事あるごとに、みずからのこころと照らし合わせたい作品だ。では、なぜそのように思うのだろうか?なぜならば、、おっと、、ここでは、述べないことにしておこう。いつもながらのなんのこっちゃだ。笑。


さて、ここで、田中貢太郎の作品だ。いつもながら、田中貢太郎の作品には、どう言ったらいいのだろうか、癒される ヒーリングにつながるなにかがあるように思えるのだ。




物語の中で、老婆が、ひとを押しのけて、われ先にと進み出る。どういうわけか、そのような誰が考えても、礼儀を欠いた、徳のない行為におよぶのだ。





最後に、日々の暮らしの中で、誰もが精一杯、力の限り、一生懸命生きているに違いない。これは間違い無いし理解できる。もちろん、この世の中で完璧なひとなど存在しない。長所があれば、短所もある。その中でも、例えば、忙しい暮らしの中で、大事なものは何かを考えたり、礼儀を欠いたり、徳のない行為は無かったかというように、みずからのこころをかえりみる機会をこの作品は、与えてくれるように思えるのだ。
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「アブセンス・オブ・マインド」西田幾多郎著
「どんなひとであれ完璧 パーフェクトではない」という考えは、ひとと付き合う際にポケットにさりげなく忍ばせておくべきこころ構えのように思えるのだ。そして、この考えは、生きれば生きるほど、寛容さ ジェネロシティに、大きく関わってくるのだろう。誰だって、程度の差こそあれ間違いを起こすものだ。もちろん、誰しも間違えないようにしているが、どういうわけか不可避的に間違ってしまう。

考えてみれば、誰でもしっかりしたところもあれば、うっかりしたところもあるように思える。この文脈で、プラスもマイナスもひっくるめてそのひとだということができ、そのどちらもが、対となっていてワンセットになっているから、どちらかだけを取り除くということができないのだ。ここらあたりは、ひとを考える際に、いつも注意深く認識しておく必要があるのかもしれない。ふと、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテのことばを思い出す。「愛する人の欠点を愛することのできない者は、真に愛しているとは言えない」


さて、西田幾多郎の作品だ。なんとも人間らしい側面が垣間見え、なぜかほっとした。ああ、こういう一面もあったのだなぁと。笑

このような「こころここにあらず」のエピソードは、ぐっと親しみを感じるとともに、その考え方に興味を持つきっかけにもなるように思える。
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「生まれた喜び」ウィリアム・ブレイク著
「2日間」ということを考えてみれば、ああ48時間であり、1日×2回でありと考えて、さしたる感慨も無いのが正直なところだ。しかしながら、ここに「いのち」という文脈が関わってくると、まったく別の考えが浮かんでくるのではないだろうか。



さて、ウィリアム・ブレイクの作品だ。この詩に触れて、まず西洋的な見方と東洋的な見方の違いを感じた。ウィリアム・ブレイクのこの作品は、喜びに満ちていて、素直に表現しているのが、よく伝わってくる。これはこれでいい。



一方で、仏教の考え方がふと頭をよぎった。それは、次のような見方だ。


「生まれてすぐに死んだかもしれない、2日で死んだかもしれない、その可能性は、十分あったはずだ。今現在、生きているということは、すなわち、生かされているということに他ならない。」
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「蓄音機の針」中井正一著
まず、音楽があって、それが録音 レコーディングされて、その録音されたものを再生する機械 マシーンがあれば、どこにいようと音楽を楽しむことができる。考えてみれば、このことは、実は、ものすごいことであり、人類の歴史における大きな一歩であったということができるだろう。もっというと、人類を一段高いレイヤー、プラットフォームに引き上げたと言っても言い過ぎでは無いだろう。



さて、1933年に書かれた中井正一の作品だ。蓄音機の針というのは、もちろんメタファーだ。まず、蓄音機がメタファーとして登場するというのは、中井自身が蓄音機に近い生活をしていたということが推察できる。つまり、音楽がいつもそばにあったのでは無いだろうか。そして、この当時、音楽を蓄音機で再生して、音楽を楽しむのに欠かせなかったのが、針だ。現代社会において、針をレコード盤に乗せる行為は、なかなか貴重なことだ。その針からその当時の状況をうかがい知ることができよう。



ここで印象的だったのは、中井自身が敏感に感じていたところだ。例えば、「型」と「一糸乱れず」そして「人間を包む窒息しそうな濁った熱っぽい空気」と表現されているところだ。この文脈で、ひとが蓄音機の針のように思える社会的空気を感じた場合、中井自身は、社会は、危ういと考えていたに違いない。
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「沈黙」遠藤周作著

 ことば。言葉の世界。

 

 ぼくは、最近、ことばの世界に、より一層、関心をよせるようになった。というのも、これまでぼくが認識していたことばの世界と、また別の違ったレイヤー、プラットフォーム、パースペクティブのことばの世界が広がっているのではないかと思うようになったからだ。いつもながら、なんのこっちゃな展開で恐縮するところであるが、笑、、、。

 

  いやいや、気を取り直していこう。うまく説明できるかわからないが、ことばの世界というのは、知れば知るほど、ブランケットのようなものが、ブランケットって、笑、、いや、とにかく、レイヤーが何層にも何層にも重層的な厚みをもった世界が存在しているように思えるのだ。その世界の全貌を明らかにするには、その世界を構成するレイヤーを一枚一枚、丹念にはがして吟味する必要があると思うのだ。

 

 ルートビッヒ・ヴィトゲンシュタインは、「ことばの限界、リミットは、世界の限界、リミットだ。」と言っている。様々な解釈があるのかもしれない。例えば、だれでもいいのだが、あるひとが、なにかについて、自由に、ことばを用いてはなす、しゃべるとする。もちろん、書いているものでもかまわないのだが、、この場合、話した、しゃべった内容が、そのひとの世界観を反映したものに、おのずとなっているのではないだろうか。例えば、小さな子供が話す内容は、そのまま獲得した世界を反映しているに違いない。あるいは、シニアの人であれば、人生経験も、語彙も豊富に獲得しているから、熟語やことわざ、メタファーなど、実にバリエーションに富んでいて、ことばで表現される世界が大きく広がっているようにおもえるのだ。つまり、それだけ獲得している、押しひろげてきた世界が、縦にも横にも奥にも大きくなっているといえるだろう。

 

 ところで、いつも饒舌になんでもはなす、しゃべるひとが、なにかについて沈黙したとする。この場合、あきらかに何かが存在していることに気づかされるのだ。沈黙する理由があるはずなのだ。なにかについて沈黙するということは、そのおかれたシチュエーション、コンディションにもよるが、なにかについて話す、しゃべること以上の意味合いを持つ場合もあるように思えるのだ。

 

 さて、遠藤周作のこの作品だ。ひとの根源的な問題に触れているので、かなりデリケートでコントラバーシャルな作品であることに間違いない。この文脈で、よくよく注意しながら見る、ウォッチする必要がある。

 

  描かれている作品の世界は、二者択一することの不可能なレイヤー、プラットフォームに存在しているもの (生命、信仰心など) を、ちから パワーをもってして、無理矢理、選ぶように仕向けられたときに、ひとはどのように向き合うのかというようなフィロソフィカル・クエスチョンが示されている。歴史的に見てもこのような状況は、存在してきたし、これからも残念ながら存在するに違いない。

 

 次に「ひとの弱さ、強さ」に触れられているところが強く印象に残る。キチジローがパードレに許しを請うところだ。「わしは弱か。、、、、、」ここのところでふと思うのだ。そもそも、「ひとの弱さ、強さ」というマトリックスを超越した、選択不可能な問題の選択、つまり、別のレイヤー、プラットフォームに存在する究極の選択を強いられているわけであるから、置かれている状況こそが、まさしくアウトレイジャスとしかいいようがない。ただ、この状況に身を任せるしかないというギリギリの状況も理解できるし、もちろん、キチジローの「苦しみ」も理解できるのだ。

 

 

  最後に、この作品で描かれた「苦しみ」のレイヤー、プラットフォームには、「強いもの、弱いもの」というものが存在しないという主張が強くうけとれる。そこには、「ひとの弱さ、強さ」というマトリックスを超越した、本来的に選択不可能な問題のぎりぎりの選択の結果、苦しむわけであるが、一方で、ただ、「強いもの、弱いもの」もないフラットな世界が存在していると考えることができるのかもしれない。そして、この文脈での「沈黙」は、何も言わないという意味での、沈黙 サイレンスを示しているのではなく、間違いなく「苦しみ」の共有、シェアに他ならないのではないだろうか。そして、その「沈黙」が示しているものは、信仰という内なるこころの奥深いところからくるものであるに違いないのではないだろうか。

 

 

 

  

 

 

 

 

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「私の果樹園」三木清著
みかん畑にスイカ畑、ぶどう園にリンゴ園。果物が食卓にあると、嬉しくなるなぁ。そんなことは、どうでもいいのだが、、笑。考えてみれば、大地が食料を育んでくれる。あたりまえのことだが、なんとも不思議に思えて仕方がないのだ。いや本当に。笑。。例えば、野菜炒めを作るとする。キャベツにニンジン、モヤシにキクラゲ、それらは、すべて、大地の恵みそのものではないか。



さて、三木清の作品だ。その果樹園 オーチャードには、ぶどうがなっているのか、リンゴなのか、絵画なのか、音楽なのか、ことばなのだろうか。さまざまな思いが駆け巡る。ふと、次のように思った。「賢者のテーブルは、知恵の実で満たされている。」と。印象的なところは、ここだ。「たましいの思慮とやさしさと堪え忍びと安けさ」が豊かな果樹園に必要だと述べられているところだ。


最後に、三木清の残した足跡、思索、果樹園には、豊かな知恵の実がなっているのではないだろうか。そして、その知恵の実を手にすることができるかどうかは、こちらしだいなのだ。
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「北村透谷の短き一生」島崎藤村著
「短い方がいいのか、それとも、長い方がいいのか」という漠然とした問いの前で立ちすくんでしまうのだ。いつもながら、オーバーでなんのこっちゃな感じで恐縮するところであるが、それはさておき、、、笑。この問いのみでは、どういうシチュエーションなのかなど詳細がわからないのでこたえようが無いのだ。


ところで、ふと、「27クラブ」のことが頭をよぎるのだ。「27歳」。年齢とひとくちに言っても、さまざまな考え方、見方 パースペクティブがあるだろう。例えば、27歳の27は、1回、2回、3回と数えていって、・・27回という1年間という時間の積み重ねとする考え方があるのかもしれない。そして、その1年間は、人によっては、通常のひとの3年間分の「濃さ」に相当することもあるのかもしれない。あるいは、27歳の27は、ただ単に、数字であり、時間のレイヤー、プラットフォームの外にある単なる記号であり、背番号や名前のようなものだとする考え方もあるのかもしれない。



さて、島崎藤村の作品だ。北村透谷について書かれている。人となりがうかがい知れ、興味深い。例えば、透谷という名は、数寄屋橋の「すきや」をもじってつけられたことや、エマーソンに影響を受けていたことなどだ。転居を頻繁に繰り返すこともあり、高輪の東禅寺の境内を借りて一時住んでいたこともあったという。




最後に、印象的な箇所がここだ。「北村君の容貌の中で一番忘れられないのは、そのさもパッションに燃えているような、そしてまた考え深い眼であった。」つまり、このように考えることができるのかもしれない。北村透谷は、熱いパトスと深淵なロゴスにつつまれていたと。
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「ここが楢山 (母を語る)」小津安二郎著
「映画」。ことばも音楽も絵も、その中に全て入っている。もちろん、さまざまな点において、一長一短あるだろう。作品の良し悪しもあるだろうし、なにかのプロパガンダになっている場合もあるだろう。それでも、僕は、このプラットフォームが好きだ。大好きだ。笑。いや本当に。



さて、小津安二郎の貴重なエッセイだ。ここには、音も絵もない、ことばだけのプラットフォームだ。しかしながら、そこは、小津安二郎だ。まるで、短編映画 ショートショートのように音楽も映像もながれるように感じた。



ところで、どんなひとであれ、加齢する。毎日毎日、年齢というレイヤーを一層一層積み重ねていく。そして、死を迎える定めだ。ある見方では、致死率100パーセントともいわれる。




 小津安二郎に与えた「楢山」のショックは、相当なものだったに違いない。いや、だれにとっても「楢山」は、ひとが生きている限り存在し、ずっと残るフィロソフィカル・クエスチョンだ。  


小津安二郎の人柄、考えが垣間見れて興味深い。
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「愛していますとあなたは言う」ジョン・キーツ著
ジョン・キーツ。


最近、ジョンは、ヨハンでありヨハネであり、ポールは、パウロであり、ピーターは、ペテロでありというようにだんだん名前からくるものが繋がってくるようになった。


さて、ジョン・キーツの作品だ。一瞬見ただけで、とても音楽的な詩だと感じた。すでにリリックになっている。ことばのプラットフォームから音楽のプラットフォームに詩が自然な流れで行き来するような感じだ。



ジョン・キーツ。


長くじっくり味わいたい作品を残している。
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「百年の孤独」ガブリエル・ガルシア・マルケス著

 「孤独、ソレダード」

 

 ソレダード、マドリード、ソレダード、マドリー、、、あの独特なイントネーションの感じだ。スペイン語だなぁ。コロンビア、南米、ラテンアメリカ、、。コロンビアは、サッカーが強い国という印象だ。南米には、いつか旅してみたいと思っているが、いつのことになるだろう。全く見当もつかないが、、そんなことはどうでもいいことだが、、、、、笑

 

 さて、ガブリエル・ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を手に取ったものの、これが読みにくかった。とても読みにくかった。二回ゆうた。笑 いや本当に。なぜ、こんなに、読むのに時間がかかったかというと、なんとも説明できない。この文体の感じに慣れていないせいなのか、「マコンド」がなぜか遠く感じられるせいなのか、ラテンアメリカの歴史的時代的背景に明るくないせいなのか、登場人物の実にチャーミングな名前のせいなのかよくわからなかった、、笑。ただ、事実として、少し読んでは、なぜかブレーキが、切れ味鋭く効く感じだった。もうちょっと、あてもなくさまよう感じで、柔らかくアバウトにスキップして読む感じが適していたのかもしれないとも思ったりした。そして、こうも思った。もしかしたら、この作品を読むこと自体が、何物にもとらわれないようにする訓練、ドリルだったりして、、いやいや、そんなことはない、、笑。

 

 この作品に登場する「自動ピアノ」や「アコーディオン」になんとなく、親しみがわいたので、なんとなく少しづつ前へ読み進めることができたような気がする。ああ、それから、例えば、200歳ぐらいの老人が自作の歌を披露するというあたりもなんとなく、読み進むための燃料となったのに間違いはない。ちょっと待って、「200歳」って、、、 ああ、こういう感じが「マジック・リアリズム」なのか。樹につながれた男性や、土を食べる女性レベーカが登場したりもするしなぁ、、、なるほど。日常生活という現実 リアリズムという基盤 ベースのうえにときおり、魔術的なもの、マジックが同時に存在するという感じかなぁ。ああ、こうも考えることができるかもしれない。文学作品というプラットフォームにおいては、現実世界での不可能・インポッシブルをいとも簡単に、可能・ポッシブルにできると。

 

 最後に、この作品で「孤独、ソレダード」のかたちがさまざまに描かれている。そのかたちは、実に多様であるが、だれにでも、どんな人においても「孤独、ソレダード」は存在する。人が生きている限り「孤独、ソレダード」は、存在するという文脈において、「孤独、ソレダード」は、人間存在に、なにかしら関わっていると考えられるし、ある意味、運命的であるともいえる。

 

  「マジック・リアリズム」というなんとも形容しがたいプラットフォームにおいて、「孤独、ソレダード」とそれぞれが、それぞれのやり方で、なんとか、うまく付き合っていくしかない、対処していくしかないというところに、ガブリエル・ガルシア・マルケスは、多くの人々の共感、シンパシー、エンパシーを得ることに成功しているのではないだろうか。

 

 

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「あすは、明日は、」イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフ著
「 明日 トゥモロー」というものは、考えてみれば、未来である、つまり未定である、もっというと、なんにもわからないにもかかわらず、なぜか楽観的 オプティミスティックにとらえてしまうのはなぜなのだろうかと思ってしまうのだ。笑


もしかしたら、「明日」というものは、よっぽど気をつけて見ておく ウォッチしておかなければならないものなのかもしれない。というのも、「明日」は、未定にもかかわらず、「また明日!」といったり、「また明日、会おう!」といってわかれたりする。ここで、当たり前すぎて少し恐縮するが、気をとりなおしていこう。笑




さて、ここで、ツルゲーネフのこの短い作品だ。この短い詩 ポエトリーの中に、生死が織り込まれている。ツルゲーネフのこの詩の短さは、その短さゆえに、逆に「長さ」を感じさせるパワーをもっている。その「長さ」とは、二つ考えられる。ひとつは、ひとの一生という物理的時間的長さ、つまり水平的な ホリゾンタルな長さだ。もうひとつは、垂直的な バーティカルな長さ、こちらは、ひとの思考の深みだ。


最後に、ツルゲーネフは、「明日」に向きあう時のひとに備わる性質と視点を示していると考えられる。つまり、「さぁ、あすは、明日は、」と言って、こころとからだを未来にセットすることが、みずからのなぐさめ コンソレーションにつながり、人生の最期の瞬間までそのように生きる存在であるということを示しているようにも思えるのだ。
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「停車場にて」小泉八雲著
空路の玄関 ポータルは、空港であり、海路の玄関は、港 ハーバーであり、陸路の玄関は、駅、停車場、レイルウェイ・ステーションだ。考えてみれば、空港、港、駅は、その性格上、ひとびとが多く行き来する、集まる場所だ。駅をおとずれる理由は、さまざまだろう。




さて、小泉八雲の作品だ。小泉八雲=ラフガデイオ・ハーンの見方、つまり西洋の見方が垣間見れて興味深い。なぜならば、そこには、「あたりまえ」に今まで思っていたことが、別の視点でとらえられることで、「あたりまえ」に対して「気づき」を得ることができるからだ。




石川五右衛門がでてくる箇所だが、現在に至っても、ひとのこころというか、見方にあまり変わりがないようにも思える。たしかに、ラショナルというよりは、イモーショナルであるともいえる。もちろん、ラフガデイオ・ハーンが、取り上げた例だけではなく、さまざまなケースにおいても、そのような見方、分析が的を得ていると考えられるのではないだろうか。
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「片隅の幸福」種田山頭火著
道の真ん中を歩く。道のセンター、メインストリームをゆく。一方、道の片隅、コーナーを歩く。真ん中と片隅とでどのように違うのだろうか。いつもながらの問いのはじまり方で恐縮するなぁ〜。笑



そもそも、片隅が存在するということは、目に見える形のものもあれば、見えない形もあるだろうが、ある種のヒエラルキーが存在しているとも考えられる。そのヒエラルキーは、望むと望むざるとにかかわらず存在する。変えられれば変えれるはずなのに、変えられないというようなどうしようもないもののようにも思える。ここのところは、普遍的な問題のようにも思えるのだ。




さて、種田山頭火の作品だ。小林一茶の句について書かれている。




小林一茶の句は、こうだ。

「大の字に寝て涼しさよ淋しさよ」

種田山頭火は、この句から、ひとの生きる世界は、良きにつけ悪しきにつけ、どうしようもなく、ひととの関係性のレイヤー、プラットフォームにおいて存在することを実感し、共感したのだろう。だからこそ、小林一茶に対して、憂鬱と片隅の幸福という相反するアンビバレントな感情を抱いたのではないだろうか。


最後に、小林一茶の句に対して、コールアンレスポンスでこう返している。「ひとり住めばあをあをとして草」と。

種田山頭火は、こう考えたのではないだろうか。「ひとり住まいなら、つまり、ひとりで生きていけるなら、誰の気兼ねもなく、まるで草が青々と伸びやかなように、イキイキと自由に暮らせるのになぁ〜」と
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「雲の小径」久生十蘭著
雲 クラウド。考えてみれば、雲というのは、単なる地球というこの惑星 プラネットにおける自然現象で、空に水蒸気が発生しているだけなのに、見る ウォッチする側のひとにとっては、その時々のこころの内面、心象風景を反映するのか、ときに、晴れやかに、ときに幻想的に、ときに、はかなくといったように雲をとらえることがあるのかもしれない。例えば、高い山のまわりに雲がかかり、山頂のみが見える場合、神々しささえ感じることもあるだろう。




さて、久生十蘭の作品だ。この作品において、あちらとこちらの境界 バウンダリーのメタファーとして雲が登場する。雲のとらえ方のある見方 パースペクティブを示しているところが興味深い。そして、飛行機の機内で男女の物語が展開するあたり、なんとも不思議な感覚におそわれる。登場人物もあちらにいるのかこちらにいるのか、あるいは、読んでいるこちら側が、あちらをこちらととらえているのか、、、説明が上手くできているかどうかよくわからないが、、。笑


あちらとこちらは、眠っているときと起きているときに対応し、雲の小径は、あちらとこちらをつなぐ道なのだ。




最後に、この雲の小径は、魂 ソウルとからだ バディのある見方を示しているとともに、実際の臨死体験のはなしにつながるもののように思えるのだ。
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「私を語る - (消息に代えて)」 種田山頭火著
ぼくは、常々思っている。「アート」というプラットフォームは、どのプラットフォームよりも自由度が高いと。逆にもし、その自由度が低くなれば、狭められれば、「アート」から遠ざかっていくように思えるのだ。もちろん、「アート」には、「ルール」があったりする。もちろん、「ルール」を守る「アート」もあれば、その「ルール」をどういうわけか、超えてしまっているものもある。それでも、「アート」は、そのふところの深さ、包容力をもって、つつみこんでしまうのだ。もう一度、つつみこんでしまうのだ。2回ゆうた。笑




さて、種田山頭火の作品だ。まず、ここのところが印象的だ。「私は、私に籠る、時代錯誤的生活に沈潜する。」種田山頭火というひとは、そうとう、生きづらさを感じていたのではないだろうか。自らの生きかたと時代がマッチしない。では、どうするのか。沈潜するといっている。



ところで、種田山頭火の代表的な句を、指を折りながらよんでも、しっくりこない。五七五の形式を成していないことに気づく。つまり、五七五の俳句のルールを超えて句が作られているのだ。種田山頭火の句は、五七五の俳句のプラットフォームの外に存在している。なぜ、そのようにしたのだろう。なぜ、そうせざるを得なかったのだろうか。疑問が残る。




最後に、「二つの念願」のところは、大いに共感できるのではないだろうか。
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「心機妙変を論ず」北村透谷著
心機一転ならわかる。こころ マインドを入れ替えたり、方向を変えてことにあたったりする、あの心機一転だ。これはわかるのだが、、。




さて、ここで北村透谷の作品だ。心機一転ではなく、「心機妙変」を論じているとなっているのだ。思わず、「妙変って、なんなん?妙変って、、妙に変わることなん?」とツッコミを入れてみた。そんなことはどうでもいいのだ。笑。



この作品の冒頭からこうきている。「哲学必ずしも人生の秘奥を貫徹せず、何ぞいはんや善悪正邪の俗論をや。」次のように解釈が出来よう。「哲学 フィロソフィーでさえ、必ずしも、人生の秘めたる深淵にとどいていない、解き明かしていないように思われるのに、善と悪、トゥルースとフォルスの深淵を俗世間が解き明かすことが出来ようか。」と。


この作品は、どうやら、平安〜鎌倉時代の摂津源氏の武士で、のちに出家して僧侶となった文覚(遠藤盛遠)について考え、心機妙変につながっていくようだ。


考えてみれば、武士、つまりサムライ・ウォーリアーは、戦さとなれば、刀を手に取り敵陣に飛び込む生と死の境を生きる世界だ。その武士から僧侶になるということは、大変なことだったに違いないのだ。例えば、現代でいえば、映画「ディア・ハンター」や映画「タクシー・ドライバー」で描かれたように、戦場が日常の世界から、戦場のない世界に適応するということがいかに難しいかということは、想像に難くない。ただ、このような限界ギリギリの世界で、洋の東西を問わず、ひとが歩んできた現実がある。



印象深いのは、ここのところだ。悪は悪であり、善は善であるということは、誰にとっても、わかりやすいところだが、例えば、悪の皮をかぶった善もあり、善の皮をかぶった悪もあるということに気づくのが難しいと語っているところだ。ここで示されているところは、遠藤周作(作家)がいう「絶対的善や絶対的悪は存在しない」という主張にもつながるように思える。




最後に、武士であった文覚(遠藤盛遠)が、戦乱の最中に発心した瞬間、つまり、悟りを得ようと、こころに決めた、こころ マインドを変えた瞬間を北村透谷がまさに「心機妙変」であると考えたのではないだろうか。
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「辞書の客観性」三木清著
ひとり、ふたり、さんにん、、ソロ、デュオ、トリオ、、、ひとり、ふたり、さんにん、、、といつもながらの出だしで、なんのこっちゃだ。笑



いやいや、例えば、ものごと、ある対象を見る場合、ひとりで見た場合と、ふたりで見た場合と、さんにんで見た場合と、あるいは、多数で見た場合とどのように見え方が違うのだろうか。もちろん、同じように見える場合もあるだろう。そして、その見る対象がわかりやすい場合は、問題ないのだが、例えば、概念だったり、歴史だったりすると、見え方、とらえ方の違いにより、さまざまな問題が生じるのかもしれない。いやむしろ、対象を見るひとが増えれば増えるほど、さまざまな問題が生じるのが、当たり前、自然だとも考えられる。なぜならば、最初から、そのような仕組み、フレームワーク、アーキテクチャによって構成されているレイヤー、プラットフォームの上に立っているからだ。


さて、三木清のこの作品だ。ここでもまた、さまざまな問題の存在が示されていて興味深い。大まかに、例えば、辞書における主観性 サブジェクティヴィティと客観性 オブジェクティヴィティのバランスの問題、そして、辞書は、ひくためのものなのか、それとも楽しむためのものなのかという問題などがあるだろう。



最後に、現代社会は、おおくのひとの知恵、知識、集合知が、簡単に集まるプラットフォームを獲得している。三木清が、その当時、示した問題が、テクノロジーの力で解決されているところもあるが、その一方で、また新たな問題も出てきているようにも思えるのだ。ここのところは、デモクラシーの問題にもつながるようにも思えるのだ。
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「星」岡本かの子著
「動いているように見えるもの」が、「生きもの」であるとする見方、パースペクティブのみで考える、とらえるならば、「動いているように見える星」は、「生きもの」であると考えることは可能なのだろうか。とまぁ、いつもながらの 入り方で恐縮する今日この頃であるが、、笑。





かりに、「動いているように見える星」が「生きもの」であるとするならば、そこには、生態系 エコシステムが存在するのだろうか。そして、星のはじまりとおわりは、誰かが見たことがあるのだろうか、、。あまりにも漠然としているなぁ。いつもながら、、笑。


「星」をずっと見る、ウォッチする時、動いているように感じるとしたら、こちらのこころ マインドも動いているのだろうか。もし動いているとするならば、そのこころの動きは、どのような軌道を描くのだろうか。流線形なのだろうか、楕円形なのだろうか、いやいや、こころの動きは、そのような形や軌道などなく、ビジュアル・イメージのプラットフォームの外に存在しているのではないだろうか。そして、星を眺めることが、こころ マインドになにかしら影響を与えるのだろうか、、。




月(ムーン ルナ セレーネ チャンドラ)と星とのかかわりはどうなっているのだろうか、、。なぜ星は、太古の昔から、ひとを魅了してやまないのか、、。といつもながら、このようなことをあれこれと考えるわけだが、そんなことはどうでもいいのだが、、笑。


さて、岡本かの子の作品だ。たしかに、星と星を線で結ぶアーキテクチャ、アイディアによって生まれる星座は、今更ながら驚くものだ。なぜならば、星と星とをラインでつないでできる形、フォルムから詩的空想、イマジネーションの世界を創作 クリエイトしたことで、夜空に浮かぶ星を、物語性 ストーリー性をもつ階層、レイヤー、プラットフォーム、つまり、ひとびとにとって、より親しみやすい世界、ステージに押し上げたと考えることができるからだ。もっというと、地球という星 プラネットと天上界にある星とを物語 ストーリーで結びつけたのだ。(たぶん、固結びでねぇ。笑)



最後に、しし座、さそり座、ふたご座、天秤座、、といろいろあるが、現代で星座を再定義するということもできるのではないだろうか。
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「ギタンジャリ」ラビンドラナート・タゴール著
旅 トリップ ジャーニー。松尾芭蕉の「奥の細道」ではないが、少しの間でも、自らのすみかを離れることは、さまざまな気づきを得ることにつながるのかもしれない。そして、物理的に離れる、距離をとることで、ものごとを別の角度、パースペクティブでみることが可能になるということなのだろう。




ところで、ぼくは、旅が大好きで大好きだが、2回ゆうた。笑。文学というレイヤー、プラットフォームで旅をするとするなら、どこでもいけるはずなのに、情報が少ないために、なかなか触れれない場所、地域が多くあるようにも思われる。例えば、インドだ。インド文学についてどれだけ触れたことがあるかというと、ほとんど無いことに気づく。


さて、インドの詩人、ラビンドラナート・タゴールの作品だ。第一印象は、難しい印象だ。なにがそうさせるかというと、この詩に出てくる「あなた」の存在だ。時間をかけて解釈したいと思っているところだ。



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「屋根裏の散歩者」江戸川乱歩著
折り紙、ふとんに押し入れ、トランスフォーマーという並びは、なにを表すのだろうと考えてみるのだ。いきなりのなんのこっちゃだ。いつもながら、、、。笑。



いやいや、ここには、伝統的な知恵が凝縮されていると思うのだ。与えられた狭い空間 スペースをいかに有効活用するかのノウハウが詰まっているように思える。例えば、ふとんだ。寝るときにだけふとんを取り出し、敷く。そして、もう寝ないのであれば、ふとんを押し入れにしまっておく、収納する。一方、ベッドだと、基本的に場所を取ったままになる。もちろん、空間 スペースに余裕があれば、このスタイルでいいのかもしれない。そして、最近は、ベッドも進化していて、寝るときだけ、壁から引きおろすタイプや、折りたたみベッドなどもあり、さまざまなバリエーションの存在が暮らしを豊かにするヒントを示しているのではないだろうか。





さて、江戸川乱歩のこの作品だ。そもそも、散歩をするなら、川沿いや森林やいろいろなところがあるのになぁ、、と思ってしまうのだが、そんなことはどうでもいいのだが、、笑。そこは、江戸川乱歩だ。江戸川乱歩の作品は、なんともいえない感じだ。笑。昼か夜かといわれれば、夜であるし、湿度も高く、スモーキンかノン・スモーキンかといわれれば、スモーキンだ。笑
ところで、ひとの性質は、陰と陽の二面性があり、その相反する二つのものが、ワンセットで、ひとりのひとに収まっていると考えられる。この文脈で、江戸川乱歩のアプローチの仕方は、陰を描くことで、ひとの本質を浮かび上がらせるものだとも言えよう。ふと、ジャンポール・サルトルやアルフレッド・ヒッチコックの「裏窓」にもつながるようにも思えた。

最後に、三郎がなぜ三日前からタバコを吸わなくなったのか、、、。ここのところの深層心理に触れるところ、そして、ボタンのブラフのところが興味深いところだ。
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「伝統と進取」九鬼周造著
その門 ゲートが開いているのか、それとも閉じているのか、それが問題のように思えるのだ。いつもながら、このような導入 イントロダクションで恐縮するなぁ。どういうわけかこうなってしまうのだ。どういうわけか、、笑。




まず、その門 ゲートは、どこにある門なのかというのも問題だ。海にある門なのか、道にある門なのか、空にある門なのか、芥川龍之介の「羅生門」なのか、フランツ・カフカの「ビフォー・ザ・ロー」なのか、さて、、。ここでは、こころ マインドにある門が開いているのか閉じているのかが問題のように思えるのだ。




九鬼周造のこの作品だ。伝統 トラディションと進取。伝統は、受け継いだり、守ったりする。進取は、積極的に新しいものを取り入れていくことを意味するのだろう。



ところで、伝統を受け継ぎつつ、進取の気性に富むということは、実は、簡単なことではないと思われるのだ。なぜならば、伝統と進取という二つのものの中には、自ずと矛盾する、ぶつかるものが存在するからだ。このぶつかり合う二つのものを、うまくバランスさせ、対処する、ハンドリングしていくということは、伝統であれば、伝統のみを追い続ける、あるいは、進取ならば進取のみを追い続けるという行為 アクションよりも一段高い階層 レイヤーにあるように思われるのだ。


最後に、九鬼周造自身はというと、伝統の匂いをかぐということだけには、決して満足していなかった。当時の西洋の考えの重要性を認識し、取り入れるべきだと主張している。新しいものを取り入れる行為 アクションの前には必ず、こころ マインドが開かれている オープンになっていなければ、その行為はなされないだろう。この文脈で、新しい考え、違った見方にオープン・マインドであったに違いない。つまり、こころの門 ゲートは、いつも開かれていたに違いないのだ。それも、全開 フルオープンで、、。
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「万物の声と詩人」北村透谷著
声、ボイス。その声、ボイスはどこから来て、誰を、なにを媒介、メディアとして通り、どこに届くのかが、問題のように思えるのだ。いきなりのなんのこっちゃで、いつもながら恐縮するが、歩みを進めていこう。笑




ところで、「ひとは自然の一部であるのか、それとも、もうすでに自然の一部ではなくなってしまっているのだろうか」とそのようなことをしばしば考えるわけだが、かりにひとが自然の一部であるとするならば、自然に対して、ことばによるコミュニケーションはできなくとも、ある程度、自然を感じ、自然からの声、ボイス、メッセージに通ずることが可能なはずだ。




さて、ここで動物の世界を見渡してみよう。犬や猫、馬や牛、イルカやクジラの気持ち、こころ、マインドがわかり、コミュニケーションが一定程度、可能なひとが稀に存在するようだ。このようなケースは、そのひとが動物、自然に近いのかもしれないし、逆に、動物、自然がそのひとに寄っているといえるのかもしれない。ドクター・ドリトルではないが、なにかしら、動物、野生、自然との、ある種のコミュニケーション能力が備わっているといえるのかもしれない。動物とのコミュニケーションは、ひととひととのコミュニケーションの方法、あるいは回路、チャネルではない形で存在するのだろう。


では、かりに森羅万象、自然、ネイチャーが声、ボイス、メッセージを発しているとしよう。その場合、送り手 センダーである自然がいくらボールを投げても、受け手、レシーバーが存在しなければ、完了 コンプリートしない、意味をなさないということになるのかもしれない。では、その声、ボイス、メッセージを受け取れるひとはどういうひとになるのだろう。




さて、北村透谷の作品だ。次のように始まる。「万物自ずから声あり。、、、」最初の最初からフルスロットル、エンジン全開ではないだろうか。笑。いや本当に。森羅万象、ネイチャーには、自ずから声、ボイスが存在するといっているのだ。つまり、北村透谷自身は、自然の一部分であると感じ、自然、宇宙の声、ボイスを感じ、それをことばというプラットフォームで表現しているのだ。つまり、このように考えることができるかもしれない。北村透谷は、自然の声、ボイスをひとのことばにすることのできる翻訳者、インタープリターだと。




最後に、すべての詩人 ポエットは、己のために生きているのではなく、万物自然の声 ボイスを世の中に伝えるために生きていると言っているのだ。この北村透谷の考え、文脈で詩人や詩に触れるとより豊かにカラフルに感じることができるに違いない。
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「早すぎた埋葬」エドガー・アラン・ポー著
「眠り」というものは、ときどき、何なんだろうと思うのだ。例えば、眠っている間の自分自身は、ほとんど、どうなっているか把握出来ていないということに気づくのだ。いや、だいたいの場合、慣れ親しんだ自宅のベッドで寝るだろうから、眠りに入ってから起きるまで、1回ぐらいトイレに行って、たぶん、夢を見たり、寝がえりをうったり、いびきをかいたりしながら、、笑 、おそらく6、7時間、意識を失って目が覚めるということはわかるのだが、、、。



さて、目が覚めて、ゆっくりと自分自身の意識を取り戻すのだが、目覚めた場所が、例えば、旅先の宿泊先だったり、列車だったり、飛行機だったりすると、いつもの景色と違うがゆえに、「あれっ」と一瞬思うのだ。そして、もし仮に、、目覚めた場所が、ひとびとが永遠に眠る場所だったら、、、。

エドガー・アラン・ポーのこの作品だ。タイトルに「早すぎる プリマチュアー」とある。考えてみれば、「早すぎる」とある場合、だいたいネガティヴなことが多い。なぜならば、そこには、適切と思われる時間 ライト・タイムよりも時間軸 タイムラインにおいて、だいぶ前、早すぎるタイミングだからだ。



この作品をどのように見るか、それは、さまざまにあるだろう。例えば、「生と死」の境界はどこにあり、誰が見極めるのかという視点、眠っている、意識を失っている自分自身は、はたして自分自身と言えるのだろうかという視点、自らの意思に反して自由を奪われる恐怖という視点などがあるだろう。


最後に、この作品をこうも考えることが出来るのかもしれない。例えば、毎晩、いつものように、ベッドに入って、いつものように目覚め朝を迎えると思って眠りに入るのだが、その眠りは、もしかしたら、毎回、永遠の眠りになる可能性もありうるということを示していると、、、いやもっというと、生きている、いのちがアクティブであるどの瞬間でさえ、その可能性はありうると。


このようなことをあれこれ考えて、今夜も眠れなくなるのだ。笑
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「兜」岡本綺堂著
どういうわけか、巡り巡っていつの間にか、うちに何かがある。どう考えても、それがどこから来たのかという来歴がわからない。説明のつかないことがあったりする。このような場合の対処の仕方は、人それぞれだろう。あるひとは、まったく気に留めないかもしれないし、あるひとは、気が済むまで調べるかもしれない。



その何かというものが問題であり、例えば、古いものでなにかしらたたかいに関わっていたものならなおさら気になるに違いない。



もうどのくらい前になるだろうか、神田でスキーグッズを見に行って路地に入った時のことだ、目立たないこみちに昔のたたかいに関わるものを置いてある店というかなんというか小さなスペースの前を通ったが、なんとも中から怪しいひかりのようなものを感じた。信じてもらえるかどうかわからないが、本当だ。あきらかに、そのもの、物質以外のものを感じた。あれはなんだったのだろう、、、今でも説明ができないのだ、、。



さて、岡本綺堂のこの作品だ。兜だ。戦国時代の武将に欠かせないアイテムの一つだ。たたかいに関わるものだ。この兜にまつわるはなしなのだが、、さて、、、。
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