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HIDE’S ESSAY ( Hideyuki Ishii )

もしよかったら、ぜひ僕のESSAYも読んでみてください。
「幸福論」アラン著
「幸せ 、幸福 、ハッピネス」というしろものを考える場合、あまりにも対象が大きく漠然としすぎて、どのようなアプローチをとるべきか考えさせられるのだ。いつもながらの出だしで恐縮するなぁ、、いや、本当に、、笑。だが、気をとりなおしていこう。笑



「幸せ」ってなんだろうね、、、、。考えてみると、確実に次のようにいえるということに気づくだろう。「たいがい、難しいやないか〜い!!」と、、。笑


まずは、手に負えない大きなものは、分けて理解していくというアプローチが思い浮かぶ。ただ、一方で次のような考えも思い浮かぶ。「幸せ」というものがどういうものかということに対する自分なりの考えは、一生関わっていかざるを得ないものであるから、その都度、大まかで、弾力的な考えをもっておくだけで、十分のようにも思えるのだ。つまり、「幸せ」というものをなんとなくわかっているが、わかっていないところもあるという状態にしておけばいいのではないだろうか。もっというと、「幸せ」に対する自分なりの考えを、すぐに取り出せるようにしておき、かつ、その考えを取り出しては、深めたり、更新したりしつつ、「幸せ」に対する自分なりの考えを寝かせておく、スリープ状態にしておくことが、大事なのでは無いだろうか。



ただ、核 コアになる部分は、ある程度、しっかりとはっきりと自分なりに把握しておく必要があるように思われる。



ああ、それと、「幸せ」のことを考えるのであれば、「不幸せ」のこともパラレルに考えるべきではないだろうか。なぜならば、「幸せ」は、時に、「不幸せ」の変装をしていることもあるからだ。もちろん、この逆もある。


さて、ここで、アランの作品だ。アランは、どのように「幸せ 幸福」を考えたのだろうか。幸福をどのような見方、パースペクティブからみた、とらえたのだろうか。まず興味深いのが、「自分自身に依存する幸福」を考えているところだ。自分自身に依存するということは、他人に依存しない、インディペンデントな、独立独歩な幸福と考えられるだろう。リヒャルト・ワーグナーにおいては、彼が自らつくった音楽からくる幸福を、ミケランジェロにおいては、彼が自ら描いた作品からくる幸福を手にしていたと考えているところだ。まずは、自分自身の幸福を求めて、獲得することが大事であり、その段階 フェーズへ到達できたら、他者へ幸福を与えることが可能だと考えている。アランの考える幸福は、自分自身の幸福を第一義的 トップ・プライオリティに考え、「徳 バーチュー」と矛盾しないと考えている。なぜならば、アランは、自分自身の幸福と、自分自身の生命、存在とがくっついている、ワンセット、切っても切り離せないものであると考えているからだ。この文脈で、アランの自分自身の幸福は、自分自身の生命とくっついている、つまりコインの表裏であると考えているのだ。




ところで、アランは、幸福になるためには、どうすればよいと考えたのだろうか。アランが示したひとつの考え方もまた興味深い。幸福になるための第一の規則が述べられている。もちろん、さまざまなシチュエーションがあり、ケースバイケースでもあるだろうが、基本的に共感できるのではないだろうか。



最後に、アランの考える幸福に義務が関わってくるところが、これまた興味深いところだ。とくに次の一文だ。


「幸福になろうと望まないならば、幸福になることは不可能だ。」


つまり、幸福になろうと望まない場合、幸福になれないということだ。幸福という山をひとつひとつ土台から作っていかなければ、幸福という山は、作れないということになる。


アランの考える「幸福」は、簡単に獲得できるものではなく、獲得するために努力が必要で、「義務」、「責務」、「任務」のようなものがともなうものだと考えたのではないだろうか。
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正岡子規の自画像
正岡子規の文字による作品も印象的なのだが、今回新たに見つかった「歳旦帳」に本人による自画像が文字とともに描かれているというではないか。


「こ、これは、、」と思い、早速確認した。笑

まず、その構図に見入ってしまう。文字が川のように流れている横で、左側を向く修行僧のような横顔の正岡子規のたたずまいが描かれている。



和服の感じから顔の表情にいたるまで人となりが伝わってくるように思えた。
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「最小人間の怪」〜人類のあとを継ぐもの〜 海野十三著
形あるものは、いずれ無くなる。では、形の無いものは、無くならないのだろうか。いつもながらの出だしで、今回もまたなんのこっちゃだ。笑。しかしながら、気をとりなおしていこう。笑。


ところで、ひとをひとたらしめるものの要素 エレメントとはなんだろうかと考えた時、もちろんさまざまな考え方、見方、パースペクティブ、レイヤーがあるだろう。例えば、ある見方では、ひとは、魂とからだから成り立っていると考える。この文脈で、例えば、魂はあるけれども、からだが無いということになれば、ひとでは無いということになるのかもしれない。



さて、海野十三の作品だ。どういえばいいのだろうか、なんとも奇妙なストーリーなのだ。海野十三がノンフィクションとして書いているのか、それとも、単なるフィクションとして書いているのかはわからない。ただ、ぼくは、このようなことは、実際起こり得ないことだとは思わないのだ。むしろ、高い確率で起こりうるのではないかと思っている。もちろん、まったくこのようなストーリーを信じないひともいるだろう。それはそれで、まったく問題ない。



ただ、世の中には、なんとも説明のできない奇妙な世界も含めて世界が構成されていると思うのだ。逆にいうと、知っている、わかっていると思っている領域 ゾーンは、世界のほんの一部なのかもしれないとも思えるのだ。
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「妖精の歌」ウィリアム・バトラー・イーツ著
妖精 フェアリー。最近、ぼくは、妖精 フェアリーというものについて、あまりよく知らないということに気づいたのだ。知っていることのすべては、妖精 フェアリーは、小さな人のようであり、羽かなんかが背中に生えていてというぐらいなのだ。笑。妖精 フェアリーに対してポジティブなイメージもなければ、ネガティヴなイメージも無い。


なぜだろうかと考えてみると、やはり文化的背景 バックグラウンドによるものだと思われるのだ。妖精 フェアリーに例えられるぼくの知っているみじかなものはなんだろうかと考えるばかりだ。


さて、ウィリアム・バトラー・イーツの作品だ。妖精が登場するのだ。やはり、古今東西で大切にされているのが、人智を超えた世界観であり、なんとも説明のできない大いなるなにかの存在だ。


妖精の歌 フェアリー・ソング。冒頭から、妖精の加齢について描かれている。「加齢したけど、こころが楽しい、、サウザンズ・オブ・イヤーズ、サウザンズ・オブ・イヤーズ、、沈黙と愛、、安息、、、。」



最後に、妖精 フェアリーという人智を超えた世界観を詩 ポエトリーというアートフォームで表現することでひとびとになにかしらの気づきを与えているように思えるのだ。
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なぜ?
今日は、一つの問いを紹介させてください。



" Why do we only rest in peace ?
Why don't we live in peace too ? "


( なぜぼくらは、(あの世で)安らかに眠るだけなんだ?

なぜぼくらは、(この世でも)安らかに生きないんだ ?)
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「水木しげるのラバウル戦記」水木しげる著
ぼくは、いつも不思議に思っていることがある。それは、「運命 デスティニー」だ。あまりに漠然としていて、恐縮するところであるが、、(笑、、その「運命 デスティニー」というものは、その時には、それがどういうものかはまったくわからない。そのようなつくり、立て付け、アーキテクチャになっている。ただ、時間が経って振り返るとなにかしらの気づきがあるのだからなんとも不思議としか思えないのだ。



さて、水木しげるの作品だ。印象に残るのは、「誰にも先のことはわからなかったが、、」というように水木しげるが回想するところだ。このような書き出しが数カ所ある。


では、誰にも先のわからない世界、レイヤー、プラットフォームにおいて、ひとが生きるということは、どういうことだろうか。さまざまな見方、観点、パースペクティブがあるだろう。例えば、こう考えることもできるのかもしれない。今の今の今は、この世に存在しているが、この今現在の延長線上に未来の自分自身の存在を全く描けない、イメージできない状態、状況にあるということではないだろうか。未来の自分自身の存在をイメージできない理由は、日常が死と隣り合わせという非日常の世界、プラットフォーム、レイヤーに自分自身が存在しているということに他ならないからだ。



最後に、「トペトロの息子の夢」のはなしは、あきらかに、「魂 ソウル」の存在を強く認識させられると同時に、あちらとこちらは、地続きであるということを物語っているように思えてならないのだ。
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「橋」フランツ・カフカ著
「なにかを待つ」という行為 アクションは、一体全体どういうことだろうと思うのだ。いつもながらの問いのはじまりで、いつもながらのなんのこっちゃで恐縮するなぁ、、いや本当に、、笑。




例えば、どこでもいいのだが、どこかの門 ゲートで誰でもいいのだが、誰かが「雨止みを持っていた」場合、この文脈で、文字通り、ストレイトに解釈すれば、雨が降り止むのを待っていたということになる。逆に、雨が上がってしまえば、待つという限定的な行為 アクションから、なにか別の行為 アクションをとる選択肢 オプションが目の前に広がり、自由になる 解放されるとも考えられるのかもしれない。


さて、フランツ・カフカの作品だ。なんともフランツ・カフカらしい感じで、いつの間にか、深く息を吐きながら、頭を軽くかいたり、口からあごあたりを手でさすったりする自分自身に気づいたりするのだ。笑



この作品も、人生のあらゆる場面において、いつの間にか、ふと思い出しているに違いないのだ。
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「井伏鱒二全詩集」井伏鱒二著
鱒 (ます)トラウト。鮪 (まぐろ)でも鯖(さば )でもなく、秋刀魚(さんま)でも鰯(いわし)でも鮭(さけ)でもなく鱒だ。明らかに、この鱒をペンネームに選ぶ井伏鱒二は、魚好きに違いない。おそらく、魚好きということは、だいたい晩酌好きなのではないだろうかと勝手に想像してしまうのだが、、笑。




ところで、鱒は、食べるなら塩焼きがいいのだろうか、それとも醤油なのだろうか、味噌なのだろうか、そんなことはどうでもいいのだが、、、笑。




さて、井伏鱒二の作品だ。魚好きであり、釣り好きである井伏鱒二だからして、作品にも釣りや魚が関係してくる。例えば、「冬の池畔」、「つくだ煮の小魚」などだ。晩酌においては、「逸題」 がある。



井伏鱒二の作品は、絵画で例えるなら、日常の風景を描いているように思える。その風景は、誰の目にも同じように写っていて親しみやすく感じられる。しかしながら、その風景は、当たり前であるが、井伏鱒二の感性 センスによってトリミングされている。しかもその風景画が、時に立体的に見えるのは、彼の生きた激動の時代が色濃く反映されているからではないだろうか。
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「途上」谷崎潤一郎著
ぼくは最近、そのひとが、どういう言葉を使って、なにをどのようにはなすのかに、強い関心を持つようになった。
「だれでも、程度の差こそあれ、たいてい、たいがい、そうやないか〜い!」とツッコミをいれた方も多数いらっしゃると思うが、、、笑、、気をとりなおしていこう。笑。




誰かが、なにかを、直接 ダイレクトに誰かにきく、インタビューする。そこには、なにがある、なにが存在するのだろう。ユーモアのセンスなのか、あるいは、真偽なのか、それとも、真偽に関わる何かだろうか。



誰かと歩きながら、話をする。当然、なにかをきけば、投げかけた問いに対するこたえがかえってくるわけだが、どのような表情で、どんな声のトーンでそのひとがかえすのかで、さまざまなことを判断する材料になるのは間違いないのかもしれない。もちろん、なにをきかれても、眉ひとつ動かさず、表面上、なんら変わったようす、反応 リアクションを示さないひともいるだろう。

さて、谷崎潤一郎のこの作品だ。谷崎自身の作品であるからして、当然ながら谷崎自身の実体験が「文学」というアートフォームにおいて、一定程度、反映されているに違いないのだ。そうであるからして、なにか生々しく、あたまの中で絵が浮かぶ、ビジュアライズされるのが不思議なところだ。若干、怖くもある。笑


湯河が新橋へ歩いている時に、安藤から声をかけられ、ストーリーが展開していく。なんとなく、「刑事コロンボ」のピーター・フォークを思い出すと同時にテーマ・ソングも頭の中で鳴り響いた。笑




最後に、この作品で、二つ印象的な箇所がある。



一つ目は、「偶然と必然」について描かれている箇所。コインシデンタルであったのかそうでなかったのか。ここで考えさせられるのは、その起きた事象は、だれの視点 パースペクティブからであったかという点で、「偶然と必然」が変わりうる可能性 プロバビリティーがあるということだ。

二つ目は、「が、あなたがただいまおっしゃらなかった部分のうちに、実は見逃してはならないことがあるのです。、、、、」
ここは、ひとの性質が巧みに描かれていると思うのだ。というのは、見方には、二通りあって、誰かが「なにをいったか」に注目するやり方と「なにをいわなかったか」に注目するやり方だ。ここのところは、「偶然と必然」との関係性と同じく、実は、一枚のコインの表裏と同じなのではないだろうか。
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「イワンのばか」レオ・トルストイ著
ふと、岸田劉生が書いていたことが、思い起こされるのだが、人物を描く時に、なにが最も大事かというと第一に「目」であり、その次に大事なのが、「手」であるとのことだった。つまり、そのひとがどういう人物であるかということを判断する多くの情報が「目」と「手」に存在することを物語っているのかもしれない。



ところで、ふと目線を落とし、自分の「手」を見てみた。自分の手であるからして、見なくてもわかっているが、確認のために、まじまじと見てみた。笑。何度見ても、「ゴツゴツした」手ではないのだ。ワイルドな手をしていない、、、笑。これはぁ〜、、いったい、、何を意味するのだろう。もちろん、遺伝的要素もあるしなぁ、、、。




さて、トルストイのこの作品だ。イワンが登場する。そうイワンだ。イワンは、兵隊に、戦いのプロフェッショナルであるようにいうのではなく、音楽を奏で歌うように命ずる。また、イワンの国では、金貨を市場原理の道具として流通させるのではなく、金貨そのものを首かざりにしたりして、すぐに足るを知ることとなる。この「足るを知る」あたりは、「老子」に通ずるものだ。



最後に、この作品は、人生において本当に大事なものを考えさせる機会を与えてくれると同時に、立ち止まって、ものの本質を見る、考えることの重要性を示しているに違いないのだ。
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「待つ」太宰治著
駅、空港に港。多くのひとが行き交う場所であり、集まる場所だ。世界と世界をつなぐ玄関口 ポータルサイトであり、門 ゲートとも考えられるのかもしれない。


駅、空港、港のうちで一番好きな場所を選べと言われれば、(あまり言われたことはないのだが、、笑) 次のようにこたえるかもしれない。


「そやねぇ、、まぁ、、あ〜、、あまりに大雑把な質問だからして、こちらとしても、、だいたいでこたえると、、え〜と、、。」という出だしではじまりそうなのは、高い確率で予測できる。(なんのこっちゃ、、笑)


いやいや、この質問が、誰による質問なのか、あるいは、どういう状況、文脈での質問なのか、そして、何より、駅、空港、港と一口に言っても、それぞれの駅や空港や港があり、それぞれに良し悪しがあり、なんとも言えないというのが正直なところだ。


ところで、駅、空港、港は、多くのひとが行き交う場所であるし、集まる場所であるといえる。もちろん、場所や時間帯によっては、閑散としている場合もあるだろう。考えてみれば、さまざまな理由から、あるいは、場合によっては、人びとが多く行き交う、集まる場所は、目的地に行くためには、どうしても通らなければならない、経由しなければならない、集まらざるを得ない場所であるとも考えられるのではないだろうか。


さて、太宰治の作品だ。太宰治は、駅で待っていたのだ。いや、なにかしらほかに理由があり、駅で待っているふりをしていたのかもしれない。いずれにせよ、駅には行っていたことには間違いないだろう。


最後に、太宰治が考えた「駅」は、こちら側のものだったのだろうか、それとも川を越えたあちら側のものだったのだろうか。
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「時の流れ」鈴木大拙
「時、時間 タイム」。

ところで、昼食と夕食のあいだに、なにかしらのおやつ少しとドリンクがあれば、「最高やないか〜〜い!!」と思ったりするのだが、また、いつもながら、そんなことは、どうでもいいことだ、、。笑


考えてみれば、この 「時、時間 タイム」というしろものは、日常生活であたりまえに活用しているが、実のところ取り扱い注意 フラジャイルではないかと思うのだ。ある程度、それがどういうものかを、理解、納得していると思っているが、実際のところ定かではないようにも思えるのだ。さまざまなひとが、いろいろと考えている。これまでの歴史に蓄積された議論、西洋のアプローチに東洋のアプローチがあるようだ。どのような切り口でそれをみていくか、ウォッチするかというところにまずは、糸口があるのかもしれない。



さて、鈴木大拙のこの作品だ。まず、「流れ フロー」に着目しているところが、興味深い。過去〜現在〜未来という流れ、時間軸 タイムラインに対して問い直すのだ。たしかに、「時」は、小さいころから、「川の流れ」のたとえによって、説明されて納得してきたが、そのたとえは、実のところ、正確なたとえかどうかはわからないような気もする。「時」を説明するときに、とりあえずこういうものという、より納得しやすいものを便宜上使用しているというように考えられなくもないのだ。では、これまで例えられてきた「時」以外のたとえは、何だろうか。これは、極めて難しいフィロソフィカル・クエスチョンだ。




鈴木大拙は、「時」そのものの中に生きていると考える。つまり、過去〜現在〜未来というように「時」を分けたり、「時」を「流れ フロー」の連続性のレイヤー、プラットフォームに存在するとは考えないのだ。




最後に、この作品で最も印象的だったのがここだ。「時」そのものの中に生きているというのは、「天上天下唯我独尊」ということでなければならぬ。というところだ。


その都度、何度も読み返して、噛みしめたい作品だ。
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最近鑑賞した映画

 ○ 最近鑑賞した映画 (といっても映画館ではみていないかもしれないなぁ〜。。笑)





' The Imitation Game ' (2014)



マス・マティシャン、アラン・トゥーリング。エニグマ・マシーン。トップ・シークレット。


さて、コードをどのようにしてブレークするのだろうか?トリックは?どのように?何を手がかりに?

そして、コードをブレーク出来たとしても、先方にそのことを知られては、元も子もない。知っていても、最善を考えて、知らないふりをギリギリまでするしかない。


3×12=36個のローターが回転する。このマシーンの感じは、ボブ・モーグのつくったシンセサイザーにもつながるようにも思えた。
最後に、アラン・トゥーリングは、走るのが好きだったようだ。それもアスリートのレベルで。走るのは、何のためだったのだろうか?何のためというより、もしかしたら、走らざるを得なかったのかもしれないと思ったりもした。





ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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' Hidden Figures ' (2016)



この作品で描かれている時代は、激動の時代だといっていいだろう。例えば、キング牧師の公民権運動が象徴的だ。



ところで、ふと思うのだ。「才能に色 カラーは関係あるのか?もちろん関係ない。全く関係ない。ナット・アット・オールだ。」才能というレイヤー、プラットフォームには、その能力の高低という価値基準 クライテリアがあるだけのはずだ。ただ、過去の歴史、その時代や社会的枠組みによっては、当たり前が当たり前でなくなる。この映画で描かれた女性たちの存在を全く知らず、いや知らされておらず、ある意味、驚いた。まさしく、" Hidden Figures "だ。


ここで音楽の話をすこし、、マイルス・デイビスとビル・エバンス。二人のジャイアンツ。おそらく、この二人も、この映画に描かれた時代、社会的枠組みから大きな圧力を受けたのではないだろうか。では、そのような圧力に屈したのだろうか。レジリアンス無しに?



「Kind Of Blue」という歴史的アルバムがその答えを明確に示している。もう一度、「才能に色 カラーは関係あるのか?もちろん関係ない。全く関係ない。ナット・アット・オールだ。」

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。


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' The Age of Shadows ' (2016)


ひととひととが組織化されてティームを作る。例えば、ある危険極まりない目的遂行のためにいったい何が必要となるのだろうか。ギリギリの状態で、ひとをどこまで信頼できるのだろうか。そもそも、どのようなスタンスで仲間とかかわるべきなのか。


この映画は、様々な視点でみることが可能だと思われる。例えば、血のつながりという視点でみることが可能かもしれない。目的遂行のために組織化されたティームには、血のつながりはなく、ファミリーではない。このことは、逆に血のつながり、ファミリーに焦点を当てているとも考えられるのではないだろうか。


最後に、この映画に描かれていることが、よりリアルに身に迫ってくる理由の一つは、昨今の国際情勢の変化、もっというとパワー・バランスの不均衡によるものなのかもしれない。過去の歴史に存在したことは、未来にも存在する可能性も大いにありうるのだ。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。


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「楢山節考」(1983年)

深沢七郎の短編小説の映画化。

 この作品は、人間存在にかかわるとてもとても大事な何か、テーマにふれており、とてもとてもデリケートで、コントラバーシャルに思えるのだ。相反する二つのなにかの境界、バウンダリーをギリギリの状態ですれすれを歩んでいる真っただ中を表現しているといえるのかもしれない。もちろん、さまざまな見方があり、様々な角度から考えることができるだろう。たとえば、種の保存というレイヤー、死生観と文化的背景というレイヤー、母と息子の関係性のレイヤー、極限状態で家族が生き抜くストラテジーというレイヤー、余命をどのように過ごすかというレイヤーなどがあるのかもしれない。

  「姥捨て山」の存在自体がフィクションかノンフィクションかという問題も一方で存在するようだが、それよりもなによりも、極限状況での人間存在にかかわる何かを示している点において、「楢山節考」の存在感たるや、ものすごい。もう一度、ものすごい。(二回繰り返し強調した。笑)

 「もしあなたが辰平なら、、もしあなたがおりんなら、、」と重厚なフィロソフィカル・クエスチョンの前で揺れ動いてしまうのだ。辰平も苦しければ、おりんも苦しいに違いない。辰平を待つ家族も苦しいに違いない。どうしようもない極限状況で、「苦しみ」を共有、シェアしているというようにも考えられる。

 この作品で示されたフィロソフィカル・クエスチョンは、残ったままになっているのだ。ずっと、、、。

 

 ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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雨月物語」(1953年)

上田 秋成 の小説の映画化。

 まず、「本来の姿、あるべき自分」について考えさせられた。

 戦乱の時代を生きる中で、間違うことなく、生き抜くということは、とにかく困難を極めるに違いない。さまざまな誘惑、葛藤、迷いの中、冷静な判断をするということはどういうことなのかと思うのだ。源十郎も藤兵衛も、混乱の中、うごめく欲望をコントロールできなくなってしまうのだ。ある意味、ここは、人間らしい一面が出ていて、思わず共感するところなのかもしれない。そして、家族も巻き込まれていく。もしかしたら、「あやまち、間違い、ミステイク」というものは、その仕組み、アーキテクチャにおいて、すぐには、気づかないつくりになっているのではないかと思えるほどだ。つまり、台風のいかんによっては、その瞬間、台風に巻き込まれているのにも関わらず、台風に巻き込まれていることさえわからないということもありえると思えるのだ。

 最後に、本当に身にしみてわかる、こたえるのは、大事な存在が急に消えてしまったときに違いないのではないだろうか。

 

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「沈黙 SILENCE」(1971年)

 遠藤周作の小説の映画化。今年が2017年であるから46年前の映画だ。

 なにを「転ぶ、放棄する、リナウンス」するのか、これは大きな問題だ。そもそも、そのプラットフォームにおいて、可能なものと可能でないものがある。その限界ぎりぎりの世界に、人の本質が現れるところであり、非常にデリケートな問題が含まれているように思えるのだ。

 100パーセントの何かに対して、100パーセント向き合える人もいれば、80パーセントの人もいるに違いない。キチジローだって、苦しかったはずである。この文脈で、人の限界を試す苦しみの世界において、優劣などなく、ただフラットな世界が存在しているだけなのかもしれない。

  最後に、非常にコントラバーシャルなテーマであり、どこにもソリューションがないのではないだろうか。。

   ただ、こころ、マインドのどこかに、気にかけてウォッチしておかなければならないようなテーマのように思えるのだ。

  ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「恋する惑星」(重慶森林, Chungking Express 1994年)

 

 2017年の1月に、香港を訪れた。宿泊先が、たまたま、チムシャーツイの重慶, Chungking mansionだったのだ。このときは、この映画の存在は知っていたものの、まだ鑑賞していなかった。つまり、この映画が公開されて、23年後に鑑賞した、ようやくたどり着いたということになる。

  映画、アートというものは、本当に恐ろしいものだ。いきなり、どういうわけか、なにかのめぐりあわせや、ふとしたきっかけで、ふところに飛び込んでくる。笑 この文脈で、映画、アートというものは、タイムトラベラーであるといえるのかもしれない。いやいや、それは、鑑賞者のこちら側なのかもしれない。

 Chungking mansion のあのエントランスの感じ、エレベーターなど、ほとんど変わっていなかった。 あの白いタイルの部屋、鉄格子の窓枠もだ。なにより、行きかう人々があの感じなのだ。

  この作品の随所にかかる曲が印象的だ。「カリフォルニア・ドリーミン」なんとも言えない感じだ。まるで時間軸、タイムラインを歪ませるかのような効果、機能があるかのようだ。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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  「博士の愛した数式」(2006年)

なにかの数式を証明する。この映画の冒頭に登場する。「美しさ ビューティ」とはなにかを考えさせられる。

ところで、ここで音楽のはなしを考えてみたい。音楽の「美しさ」とは、何だろう。聴こえてくるサウンド、リズム、雰囲気、、さまざまな観点があるだろう。ひとによって美しさの感じ方、定義、ディフィニッションも違うかもしれない。例えば、美しい音楽を目に見える形にするとする。いろいろな方法があるだろう。音のイメージを絵に描く、あるいは、楽譜におこすという方法があるのかもしれない。楽譜、シートミュージックに音が並ぶ。楽譜に起こされた音符の間隔、インターヴァルや空間、スペース、ハーモニー、調和、それらを総合的にみただけでその音楽は、聴覚を通さずとも非の打ち所がないくらいの美しさが存在していることもあるのかもしれない。それから、虚数、イマジナリーナンバーのところは、虚音、イマジナリーノート、イマジナリーサウンドにも思いを馳せたりした。


この映画の中で、野球のシーンが登場する。考えてみれば、背番号、さまざまな見方があることに気づかされる。ルート記号が背番号とは、おそれいった。笑

背番号を記号というレイヤーで再定義するとするなら、例えば、天気マーク、地図マーク、交通標識などなど、背番号に適用できるでは無いかとふと思う。笑


さて、博士がノックして飛び出していくボールが描く軌道をみて、数学的曲線を思い描く。実際の世界、リアルワールドには、空気抵抗や風などが強固に存在している。これは、認識と実践そのものではないか。この文脈で、数式の世界は、なにものにも妨げられることの無い世界、レイヤー、プラットフォームと言えるかもしれない。
数式の世界は、ロゴス、ロジックの世界だ。まったくパトス、パッションがつけいる隙もないはずだ。ただ、そこには、「美しさ」が存在するのだ。その「美しさ」は、この映画の博士のこころに響くのだ。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「南極料理人」(2009年)



考えてみれば、南極や北極に行ける人々は、ほんのわずかだと気づくのだ。もちろん、どういうところかというのは、映像や伝え聞くところでなんとなくわかるが、、。

この映画の中で、テーブルを囲んで「ラーメン」のはなしのシーンは、なんともユーモラスだった。食は生きるために必要であると同時に、楽しみ、エンターテイメントの一つでもあるのだ。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。


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「廃市(はいし)」(1983年)

 福永武彦の小説が原作。福岡県柳川市がロケ地となっており、川や船、街並みが懐かしく感じられた。もう一度書こう、「懐かしく」感じられた。というのも、こどものころ、福岡県大牟田市に住んでいたことがあり、柳川市は、よく知っているのだ。柳川の川下りはとても有名。さて、この映画は、福永武彦のデカダンスの香りが漂っている。ストーリーをローラーコースターに例えるとくだるときのあの感じだ。うまくたとえられてないような気がするが、、、(笑 

 ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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 「The Trial (トライアル 審判)」(1992年)

 フランツ・カフカの小説「審判」をもとに映画化。カフカ、カフカ、カフカですよ。3回ゆうた。(笑

 そうそうたる俳優陣ですよ。カイル・マクラクランにアンソニー・ホプキンス。ストーリーを詳しく書いていきますね。いやいや、皆さんの好奇心をさまたげることがあってはなりませんから書かないことにしますね。。(ど、どっちやね〜ん! 笑)

 ロケ地がプラハで、懐かしく感じました。「懐かしく」感じました。2回ゆうた。(笑

というのは、チェコ、プラハに行ったことがありましてね、旅行はおすすめですよ。。それはさておき、、(笑

 

 ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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 「たそがれ清兵衛」 (2002年)

 藤沢周平原作の映画化。

 サムライ・ウォーリアーが大切にするものが描かれている。

 最近、時代劇が好き。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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  「許されざる者」(2013年)

クリント・イーストウッド監督作品のリメイク版。

「これは、もうしないんだ、決めたんだ、二度と。」と誓ったものの、どうしようもなく揺れ動く心の葛藤。

最近、時代劇が好き。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「超高速!参勤交代」(2014年)

 参勤交代というものが、本当はどういうものだったのかとても気になる今日この頃だ。(笑

最近、時代劇が好き。

ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「Ex Machina」(2015年)

この映画のトレーラーを見たときから、何か妙に、惹きつけられた。それは、映画のストーリーによるものなのか、それとも、アリシア・ビカンダーの魅力によるものなのか、それともその両方なのか何なのか今でもよくわからないのだ。笑

さて、ここで問題になるのが、「サーチ・エンジン」との関わり方だ。ごく日常の生活の中で、どのくらい距離を保って関わることができているのだろうか。

ここで、「ルール 支配」というレイヤーを考えてみたい。「サーチ・エンジン」は、調べものをすると一瞬にして、オンデマンドに適切な情報を教えてくれる。便利そのものだ。一方で、自分の嗜好、興味、傾向、みずからに関係する情報の大部分を与えてしまっているのだ。

「敵を知り、己を知れば、100戦危うからず」というたたかいの極意がある。この文脈でいけば、 対「サーチ・エンジン」戦においては、勝つことができないということになるのだ。なぜならば、「サーチ・エンジン」は、こちら側のことを隅々まで知っているからだ。つまり、「サーチ・エンジン」に依存すればするほど、支配される、あるいは、決められたルールを(つくる側ではなく)守る側に立つということになるのだ。この文脈で、ある意味、この映画は、注意喚起しているのかもしれない。


ぜひ、一度、鑑賞してみてください。

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「くせ」吉川英治著
「くせ ハビット」。


「くせ」というものは、なにかしら、そのひとがどういう人物であるかということに深く関わっているというように考えることができるだろう。改めて、「くせ」とはなんだろうと考えてみると、これがなかなかのしろものだ。(なかなかってねぇ、、、笑)


ところで、日常生活の中で、例えば、次のように言ったりする。「ここのサバ味噌定食は、くせになる味だ。」とか、「一癖も二癖もあるやつだ。」とか言ったりする。もちろん、そのような「くせ」が社会的ルール内であれば、許容されるが、逸脱すると問題になる。




さて、吉川英治のこの作品だ。家康〜信長〜秀吉ときて、良寛に繋がっていく。良寛の「くせ」は、くせというより、どう考えても、現代社会の枠組みでとらえるなら「ハラスメント」 に当たるに違いない。なぜ、まわりの人たちは、指摘して諌めてあげなかったのか不思議なところだ。いや本当に。笑




この作品で、印象的なところがある。それは、「くせ」というものは、自分のそれには、盲目的 ブラインドであり、他人のそれは、よく見えるというものである。ここらあたりは、「くせ」の特徴的 キャラクタリスティックな側面を示している。つまり、自分の「くせ」が何であるかを自分自身が認識するには、まわりのひとに教えてもらう、指摘してもらう以外に方法がないということになるであろう。



ソクラテスのいう「汝自身を知れ」を考える際、自分の「くせ」を知るには、(つまり、自分のくせを知ることは、自分自身がどういう人物であるかという人間存在に深く関わっていると考えられるわけであるが、) まわりのひとに、良く言われようが、悪く言われようが、その指摘、批判に耳を傾ける、マインドをオープンにセットしておくことの必要性に迫られる。この文脈で、吉川英治は、「くせ」という一つの切り口、観点 パースペクティブから、そのひとがどういう人物であるかという人間存在に関わる何か重要なものを知るには、他者との関係性の中に存在すると考えていたようにも思えるのだ。
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「尼になった老婆」田中貢太郎著
芥川龍之介の「羅生門」、「蜘蛛の糸」、それから、レオ・トルストイの「三つの質問」などは、いつもあたまの片隅にとどめておいて、事あるごとに、みずからのこころと照らし合わせたい作品だ。では、なぜそのように思うのだろうか?なぜならば、、おっと、、ここでは、述べないことにしておこう。いつもながらのなんのこっちゃだ。笑。


さて、ここで、田中貢太郎の作品だ。いつもながら、田中貢太郎の作品には、どう言ったらいいのだろうか、癒される ヒーリングにつながるなにかがあるように思えるのだ。




物語の中で、老婆が、ひとを押しのけて、われ先にと進み出る。どういうわけか、そのような誰が考えても、礼儀を欠いた、徳のない行為におよぶのだ。





最後に、日々の暮らしの中で、誰もが精一杯、力の限り、一生懸命生きているに違いない。これは間違い無いし理解できる。もちろん、この世の中で完璧なひとなど存在しない。長所があれば、短所もある。その中でも、例えば、忙しい暮らしの中で、大事なものは何かを考えたり、礼儀を欠いたり、徳のない行為は無かったかというように、みずからのこころをかえりみる機会をこの作品は、与えてくれるように思えるのだ。
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「アブセンス・オブ・マインド」西田幾多郎著
「どんなひとであれ完璧 パーフェクトではない」という考えは、ひとと付き合う際にポケットにさりげなく忍ばせておくべきこころ構えのように思えるのだ。そして、この考えは、生きれば生きるほど、寛容さ ジェネロシティに、大きく関わってくるのだろう。誰だって、程度の差こそあれ間違いを起こすものだ。もちろん、誰しも間違えないようにしているが、どういうわけか不可避的に間違ってしまう。

考えてみれば、誰でもしっかりしたところもあれば、うっかりしたところもあるように思える。この文脈で、プラスもマイナスもひっくるめてそのひとだということができ、そのどちらもが、対となっていてワンセットになっているから、どちらかだけを取り除くということができないのだ。ここらあたりは、ひとを考える際に、いつも注意深く認識しておく必要があるのかもしれない。ふと、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテのことばを思い出す。「愛する人の欠点を愛することのできない者は、真に愛しているとは言えない」


さて、西田幾多郎の作品だ。なんとも人間らしい側面が垣間見え、なぜかほっとした。ああ、こういう一面もあったのだなぁと。笑

このような「こころここにあらず」のエピソードは、ぐっと親しみを感じるとともに、その考え方に興味を持つきっかけにもなるように思える。
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「生まれた喜び」ウィリアム・ブレイク著
「2日間」ということを考えてみれば、ああ48時間であり、1日×2回でありと考えて、さしたる感慨も無いのが正直なところだ。しかしながら、ここに「いのち」という文脈が関わってくると、まったく別の考えが浮かんでくるのではないだろうか。



さて、ウィリアム・ブレイクの作品だ。この詩に触れて、まず西洋的な見方と東洋的な見方の違いを感じた。ウィリアム・ブレイクのこの作品は、喜びに満ちていて、素直に表現しているのが、よく伝わってくる。これはこれでいい。



一方で、仏教の考え方がふと頭をよぎった。それは、次のような見方だ。


「生まれてすぐに死んだかもしれない、2日で死んだかもしれない、その可能性は、十分あったはずだ。今現在、生きているということは、すなわち、生かされているということに他ならない。」
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「沈黙の春」レイチェル・カーソン著

2017年の今年、アリに注目が集まっている。「ヒアリ」だ。見過ごすことのできないアリだ。なぜならば、この「ヒアリ」に刺されると生命が危機にさらされる可能性があるからだ。そして、同時に生態系の変化にかかわる問題も浮上した。




さて、レイチェル・カーソンの作品だ。この作品の中にも「ヒアリ」が登場し、どのように対処したかが書かれている。1962年といえば、もう半世紀も前になる。ほんの小さな植物が変化するだけで、生態系は、大きく変化する。すべてが一つの輪で繋がっているのだ。


 ところで、ひとは、歴史上、自然界にないものを作り出してきた。便利で快適な世界を求めて、ひたすら走ってきたようにも思える。このようなプラットフォームにおいて、うまくバランスをとっていくということは、実は非常に困難なことに違いないのだ。つまり、頭では、よく理解していても行動がなかなか伴わないという根源的問題があるようにも思える。 寺田寅彦も同じようなことを考えていた。彼の作品「蛆の効用」のなかで、いみじくもこう述べている。「 ○を押さえると△があばれだす。天然の設計による平衡を乱す前には、よほどよく考えてかからないと危険なものである。」と。

 春には、鳥が鳴く。この毎年のあたりまえが、失われないようにするために、レイチェル・カーソンは、警鐘を鳴らし続けている。

そもそも、ひとが自然の「うち」の存在者なのか、「そと」の存在者なのかをよくよく考える必要があるのかもしれない。

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「ばけものばなし」岸田劉生著
ばけもの。モンスター。文字通り受け取ると、化けものだ。何かから変化したものということになるだろう。



現代では、例えば、スポーツで、野球でもサッカーのはなしをしている中で、「あいつは、ばけものだ。」といったとする。この場合、「あいつは、飛び抜けて、ものすごいプレイヤーだ。」というようにプラス、ポジティブにとらえていることに気付かされるのだ。




さて、岸田劉生の作品だ。ばけもののことについて、これだけ語れる人物がいるだろうか。笑。いや、彼は、真剣なのだ。




興味深かったところは、幽霊になぜ足が無いのかについて述べているところだ。


最後に、ひとが恐怖を感じる時は、もちろん、その見た対象そのものが恐ろしいものであると同時に、その対象を見たこちら側のこころがどのように動くかにかかわっているように思えるのだ。
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「雑種」フランツ・カフカ著
ハーフは、ダブルであり、ダブルは、ハーフなのかもしれないと思うのだ。いつもながら、いきなりのなんのこっちゃだ。笑。気をとりなおしていこう。


例えば、ひとと動物が合わさった想像上の生物というと、人魚 マーメイドであったり、ケンタウルスが思い浮かぶのかもしれない。人魚のことを考えてみると、ヒレが付いているから、海で泳ぐことに関しては、ひとの能力よりも優れている。一方で、陸上に上がると、歩くことができないということになる。この文脈で、種が混ざる、血がクロスするということは、いったいどういうことなのだろうか。

さて、フランツ・カフカの作品だ。父からの遺産で、半分が猫、半分が羊の奇妙な動物が登場する。ハーフ・キトゥン、ハーフ・ラムだ。冒頭から、「あっ」と思うのだ。これは、おそらく、フランツ・カフカ本人のことを描いているのではないかと。




最後に、「肉屋の包丁こそ一番の救いかもしれない。」というところが印象的だった。
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「蓄音機の針」中井正一著
まず、音楽があって、それが録音 レコーディングされて、その録音されたものを再生する機械 マシーンがあれば、どこにいようと音楽を楽しむことができる。考えてみれば、このことは、実は、ものすごいことであり、人類の歴史における大きな一歩であったということができるだろう。もっというと、人類を一段高いレイヤー、プラットフォームに引き上げたと言っても言い過ぎでは無いだろう。



さて、1933年に書かれた中井正一の作品だ。蓄音機の針というのは、もちろんメタファーだ。まず、蓄音機がメタファーとして登場するというのは、中井自身が蓄音機に近い生活をしていたということが推察できる。つまり、音楽がいつもそばにあったのでは無いだろうか。そして、この当時、音楽を蓄音機で再生して、音楽を楽しむのに欠かせなかったのが、針だ。現代社会において、針をレコード盤に乗せる行為は、なかなか貴重なことだ。その針からその当時の状況をうかがい知ることができよう。



ここで印象的だったのは、中井自身が敏感に感じていたところだ。例えば、「型」と「一糸乱れず」そして「人間を包む窒息しそうな濁った熱っぽい空気」と表現されているところだ。この文脈で、ひとが蓄音機の針のように思える社会的空気を感じた場合、中井自身は、社会は、危ういと考えていたに違いない。
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「ウォルト・ウィトマン詩集」ウォルト・ウィトマン著
ふとした、思いつきや、アイディアを忘れないようにメモする。何かをメモしようと思って、メモする段になると、メモの内容自体を忘れることしばしばだが、、それはさておき、、、笑。



では、何にメモするのか。現代では、ディバイスなのかもしれないが、紙 ペイパーにメモすることもあるだろう。では、その紙 ペイパーは、どこから来ているのか。パピルス、パイパーだ。 つまり、植物、草の繊維が紙のルーツだ。この文脈で「草の葉 リーブス・オブ・グラス」というタイトルの中に、なにかしら歴史的側面や、偉大な自然 グレイト・ネイチャーなど、さまざまなものを感じざるを得ないのだ。




さて、ウォルト・ウィトマンの作品だ。印象的な作品が三つある。それは、次の三つだ。

1) きみの扉を閉ざすな シャット・ナット・ユア・ドアーズ

2) 走者 ザ・ランナー


3) 老齢に トゥー・オールド・エイジ


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It's Love All Over (Music by Hideyuki Ishii) performed by Hideyuki Ishii 石井英之 !!

It's Love All Over (Music by Hideyuki Ishii) performed by Hideyuki Ishii 石井英之 !!

もう6月になりましたね。さっき正月を迎えたと思ったら、もう6月ですよ。1年の約半分ですよ。いつもながら、オーバーで、わざとらしくて恐縮しますが、、、「さっき」ってねぇ〜(笑

ところで、最近、よく思うんです、しみじみと、、。ウーロン茶をテーブルの上のコップに注ぎながら、、「愛 LOVE」 というものを、なにかに注ぐと、その器が満ち満ちて、これ以上注げないという、いわゆる限界 リミットはあるのだろうかと。いやいや、そもそも、「愛 LOVE」というものは、天秤、はかり、メジャーのレイヤー、プラットフォームの外側にあるのではないかと、、、。いやいや、「愛 LOVE」というものは、プラグマティックであるべきであり、、、、といったようにいろいろと考えてしまいますが、、、それはさておき、、、笑

あ、「愛 LOVE」といえば、、、そういえば、、あ、、、笑

It's Love All Over (Music by Hideyuki Ishii) performed by Hideyuki Ishii 石井英之 !! がリリースされました。

よかったら、ぜひ聴いてみて下さい。AmazoniTunes でもご試聴、ご購入できますよ。

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「沈黙」遠藤周作著

 ことば。言葉の世界。

 

 ぼくは、最近、ことばの世界に、より一層、関心をよせるようになった。というのも、これまでぼくが認識していたことばの世界と、また別の違ったレイヤー、プラットフォーム、パースペクティブのことばの世界が広がっているのではないかと思うようになったからだ。いつもながら、なんのこっちゃな展開で恐縮するところであるが、笑、、、。

 

  いやいや、気を取り直していこう。うまく説明できるかわからないが、ことばの世界というのは、知れば知るほど、ブランケットのようなものが、ブランケットって、笑、、いや、とにかく、レイヤーが何層にも何層にも重層的な厚みをもった世界が存在しているように思えるのだ。その世界の全貌を明らかにするには、その世界を構成するレイヤーを一枚一枚、丹念にはがして吟味する必要があると思うのだ。

 

 ルートビッヒ・ヴィトゲンシュタインは、「ことばの限界、リミットは、世界の限界、リミットだ。」と言っている。様々な解釈があるのかもしれない。例えば、だれでもいいのだが、あるひとが、なにかについて、自由に、ことばを用いてはなす、しゃべるとする。もちろん、書いているものでもかまわないのだが、、この場合、話した、しゃべった内容が、そのひとの世界観を反映したものに、おのずとなっているのではないだろうか。例えば、小さな子供が話す内容は、そのまま獲得した世界を反映しているに違いない。あるいは、シニアの人であれば、人生経験も、語彙も豊富に獲得しているから、熟語やことわざ、メタファーなど、実にバリエーションに富んでいて、ことばで表現される世界が大きく広がっているようにおもえるのだ。つまり、それだけ獲得している、押しひろげてきた世界が、縦にも横にも奥にも大きくなっているといえるだろう。

 

 ところで、いつも饒舌になんでもはなす、しゃべるひとが、なにかについて沈黙したとする。この場合、あきらかに何かが存在していることに気づかされるのだ。沈黙する理由があるはずなのだ。なにかについて沈黙するということは、そのおかれたシチュエーション、コンディションにもよるが、なにかについて話す、しゃべること以上の意味合いを持つ場合もあるように思えるのだ。

 

 さて、遠藤周作のこの作品だ。ひとの根源的な問題に触れているので、かなりデリケートでコントラバーシャルな作品であることに間違いない。この文脈で、よくよく注意しながら見る、ウォッチする必要がある。

 

  描かれている作品の世界は、二者択一することの不可能なレイヤー、プラットフォームに存在しているもの (生命、信仰心など) を、ちから パワーをもってして、無理矢理、選ぶように仕向けられたときに、ひとはどのように向き合うのかというようなフィロソフィカル・クエスチョンが示されている。歴史的に見てもこのような状況は、存在してきたし、これからも残念ながら存在するに違いない。

 

 次に「ひとの弱さ、強さ」に触れられているところが強く印象に残る。キチジローがパードレに許しを請うところだ。「わしは弱か。、、、、、」ここのところでふと思うのだ。そもそも、「ひとの弱さ、強さ」というマトリックスを超越した、選択不可能な問題の選択、つまり、別のレイヤー、プラットフォームに存在する究極の選択を強いられているわけであるから、置かれている状況こそが、まさしくアウトレイジャスとしかいいようがない。ただ、この状況に身を任せるしかないというギリギリの状況も理解できるし、もちろん、キチジローの「苦しみ」も理解できるのだ。

 

 

  最後に、この作品で描かれた「苦しみ」のレイヤー、プラットフォームには、「強いもの、弱いもの」というものが存在しないという主張が強くうけとれる。そこには、「ひとの弱さ、強さ」というマトリックスを超越した、本来的に選択不可能な問題のぎりぎりの選択の結果、苦しむわけであるが、一方で、ただ、「強いもの、弱いもの」もないフラットな世界が存在していると考えることができるのかもしれない。そして、この文脈での「沈黙」は、何も言わないという意味での、沈黙 サイレンスを示しているのではなく、間違いなく「苦しみ」の共有、シェアに他ならないのではないだろうか。そして、その「沈黙」が示しているものは、信仰という内なるこころの奥深いところからくるものであるに違いないのではないだろうか。

 

 

 

  

 

 

 

 

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「私の果樹園」三木清著
みかん畑にスイカ畑、ぶどう園にリンゴ園。果物が食卓にあると、嬉しくなるなぁ。そんなことは、どうでもいいのだが、、笑。考えてみれば、大地が食料を育んでくれる。あたりまえのことだが、なんとも不思議に思えて仕方がないのだ。いや本当に。笑。。例えば、野菜炒めを作るとする。キャベツにニンジン、モヤシにキクラゲ、それらは、すべて、大地の恵みそのものではないか。



さて、三木清の作品だ。その果樹園 オーチャードには、ぶどうがなっているのか、リンゴなのか、絵画なのか、音楽なのか、ことばなのだろうか。さまざまな思いが駆け巡る。ふと、次のように思った。「賢者のテーブルは、知恵の実で満たされている。」と。印象的なところは、ここだ。「たましいの思慮とやさしさと堪え忍びと安けさ」が豊かな果樹園に必要だと述べられているところだ。


最後に、三木清の残した足跡、思索、果樹園には、豊かな知恵の実がなっているのではないだろうか。そして、その知恵の実を手にすることができるかどうかは、こちらしだいなのだ。
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「北村透谷の短き一生」島崎藤村著
「短い方がいいのか、それとも、長い方がいいのか」という漠然とした問いの前で立ちすくんでしまうのだ。いつもながら、オーバーでなんのこっちゃな感じで恐縮するところであるが、それはさておき、、、笑。この問いのみでは、どういうシチュエーションなのかなど詳細がわからないのでこたえようが無いのだ。


ところで、ふと、「27クラブ」のことが頭をよぎるのだ。「27歳」。年齢とひとくちに言っても、さまざまな考え方、見方 パースペクティブがあるだろう。例えば、27歳の27は、1回、2回、3回と数えていって、・・27回という1年間という時間の積み重ねとする考え方があるのかもしれない。そして、その1年間は、人によっては、通常のひとの3年間分の「濃さ」に相当することもあるのかもしれない。あるいは、27歳の27は、ただ単に、数字であり、時間のレイヤー、プラットフォームの外にある単なる記号であり、背番号や名前のようなものだとする考え方もあるのかもしれない。



さて、島崎藤村の作品だ。北村透谷について書かれている。人となりがうかがい知れ、興味深い。例えば、透谷という名は、数寄屋橋の「すきや」をもじってつけられたことや、エマーソンに影響を受けていたことなどだ。転居を頻繁に繰り返すこともあり、高輪の東禅寺の境内を借りて一時住んでいたこともあったという。




最後に、印象的な箇所がここだ。「北村君の容貌の中で一番忘れられないのは、そのさもパッションに燃えているような、そしてまた考え深い眼であった。」つまり、このように考えることができるのかもしれない。北村透谷は、熱いパトスと深淵なロゴスにつつまれていたと。
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「ここが楢山 (母を語る)」小津安二郎著
「映画」。ことばも音楽も絵も、その中に全て入っている。もちろん、さまざまな点において、一長一短あるだろう。作品の良し悪しもあるだろうし、なにかのプロパガンダになっている場合もあるだろう。それでも、僕は、このプラットフォームが好きだ。大好きだ。笑。いや本当に。



さて、小津安二郎の貴重なエッセイだ。ここには、音も絵もない、ことばだけのプラットフォームだ。しかしながら、そこは、小津安二郎だ。まるで、短編映画 ショートショートのように音楽も映像もながれるように感じた。



ところで、どんなひとであれ、加齢する。毎日毎日、年齢というレイヤーを一層一層積み重ねていく。そして、死を迎える定めだ。ある見方では、致死率100パーセントともいわれる。




 小津安二郎に与えた「楢山」のショックは、相当なものだったに違いない。いや、だれにとっても「楢山」は、ひとが生きている限り存在し、ずっと残るフィロソフィカル・クエスチョンだ。  


小津安二郎の人柄、考えが垣間見れて興味深い。
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「愛していますとあなたは言う」ジョン・キーツ著
ジョン・キーツ。


最近、ジョンは、ヨハンでありヨハネであり、ポールは、パウロであり、ピーターは、ペテロでありというようにだんだん名前からくるものが繋がってくるようになった。


さて、ジョン・キーツの作品だ。一瞬見ただけで、とても音楽的な詩だと感じた。すでにリリックになっている。ことばのプラットフォームから音楽のプラットフォームに詩が自然な流れで行き来するような感じだ。



ジョン・キーツ。


長くじっくり味わいたい作品を残している。
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「百年の孤独」ガブリエル・ガルシア・マルケス著

 「孤独、ソレダード」

 

 ソレダード、マドリード、ソレダード、マドリー、、、あの独特なイントネーションの感じだ。スペイン語だなぁ。コロンビア、南米、ラテンアメリカ、、。コロンビアは、サッカーが強い国という印象だ。南米には、いつか旅してみたいと思っているが、いつのことになるだろう。全く見当もつかないが、、そんなことはどうでもいいことだが、、、、、笑

 

 さて、ガブリエル・ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を手に取ったものの、これが読みにくかった。とても読みにくかった。二回ゆうた。笑 いや本当に。なぜ、こんなに、読むのに時間がかかったかというと、なんとも説明できない。この文体の感じに慣れていないせいなのか、「マコンド」がなぜか遠く感じられるせいなのか、ラテンアメリカの歴史的時代的背景に明るくないせいなのか、登場人物の実にチャーミングな名前のせいなのかよくわからなかった、、笑。ただ、事実として、少し読んでは、なぜかブレーキが、切れ味鋭く効く感じだった。もうちょっと、あてもなくさまよう感じで、柔らかくアバウトにスキップして読む感じが適していたのかもしれないとも思ったりした。そして、こうも思った。もしかしたら、この作品を読むこと自体が、何物にもとらわれないようにする訓練、ドリルだったりして、、いやいや、そんなことはない、、笑。

 

 この作品に登場する「自動ピアノ」や「アコーディオン」になんとなく、親しみがわいたので、なんとなく少しづつ前へ読み進めることができたような気がする。ああ、それから、例えば、200歳ぐらいの老人が自作の歌を披露するというあたりもなんとなく、読み進むための燃料となったのに間違いはない。ちょっと待って、「200歳」って、、、 ああ、こういう感じが「マジック・リアリズム」なのか。樹につながれた男性や、土を食べる女性レベーカが登場したりもするしなぁ、、、なるほど。日常生活という現実 リアリズムという基盤 ベースのうえにときおり、魔術的なもの、マジックが同時に存在するという感じかなぁ。ああ、こうも考えることができるかもしれない。文学作品というプラットフォームにおいては、現実世界での不可能・インポッシブルをいとも簡単に、可能・ポッシブルにできると。

 

 最後に、この作品で「孤独、ソレダード」のかたちがさまざまに描かれている。そのかたちは、実に多様であるが、だれにでも、どんな人においても「孤独、ソレダード」は存在する。人が生きている限り「孤独、ソレダード」は、存在するという文脈において、「孤独、ソレダード」は、人間存在に、なにかしら関わっていると考えられるし、ある意味、運命的であるともいえる。

 

  「マジック・リアリズム」というなんとも形容しがたいプラットフォームにおいて、「孤独、ソレダード」とそれぞれが、それぞれのやり方で、なんとか、うまく付き合っていくしかない、対処していくしかないというところに、ガブリエル・ガルシア・マルケスは、多くの人々の共感、シンパシー、エンパシーを得ることに成功しているのではないだろうか。

 

 

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「あすは、明日は、」イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフ著
「 明日 トゥモロー」というものは、考えてみれば、未来である、つまり未定である、もっというと、なんにもわからないにもかかわらず、なぜか楽観的 オプティミスティックにとらえてしまうのはなぜなのだろうかと思ってしまうのだ。笑


もしかしたら、「明日」というものは、よっぽど気をつけて見ておく ウォッチしておかなければならないものなのかもしれない。というのも、「明日」は、未定にもかかわらず、「また明日!」といったり、「また明日、会おう!」といってわかれたりする。ここで、当たり前すぎて少し恐縮するが、気をとりなおしていこう。笑




さて、ここで、ツルゲーネフのこの短い作品だ。この短い詩 ポエトリーの中に、生死が織り込まれている。ツルゲーネフのこの詩の短さは、その短さゆえに、逆に「長さ」を感じさせるパワーをもっている。その「長さ」とは、二つ考えられる。ひとつは、ひとの一生という物理的時間的長さ、つまり水平的な ホリゾンタルな長さだ。もうひとつは、垂直的な バーティカルな長さ、こちらは、ひとの思考の深みだ。


最後に、ツルゲーネフは、「明日」に向きあう時のひとに備わる性質と視点を示していると考えられる。つまり、「さぁ、あすは、明日は、」と言って、こころとからだを未来にセットすることが、みずからのなぐさめ コンソレーションにつながり、人生の最期の瞬間までそのように生きる存在であるということを示しているようにも思えるのだ。
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